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 日向神話批判について


 日向神話は歴史とは関係のない全くの神話だと見る人が多い。「日向神話の史実」といったことを言うと時代錯誤で非科学的と取られかねない。別にそんなことはないと思うのだが、何故そうした雰囲気になっているのか若干の補足をしたい。

 高名な学者の論だといっても常に論理的で公正と決まったものでもない。というのも、日向神話をどう見るかということは、殆んどの場合その論者の歴史観と直結している。
 例えば畿内説の見方、これは明快である。畿内説は最初から日向神話と両立し得ない。畿内土着の勢力の成長したものが大和朝廷だという立場であるから、当然ながら日向への降臨も日向からの東征も有り得ない。畿内説に立つなら結論は最初から決まっている。考えるまでもなく、日向神話は全て全くのフィクションでしか有り得ない。
 或いは万世一系の見方。この立場でも日向神話はとても史実とは見られない。仮にニニギや神武にモデルがいたとして、崇神の先祖となるとそれはかなり古い時代の人である。しかし、実際の歴史の中で日向が栄えるのはずっと時代が下がる。時代が合わない。つまり、日向神話は後世に生まれたフィクションだろうということになる。
 日向神話を全くのフィクションと見る人はこのどちらかの立場に立っている場合が多い。論者の歴史観からすれば当然の帰結ではあるのだが、しかし、この畿内説や万世一系、そのまま自明の前提と出来るか?ということである。

 崇神の時代の大和には神武の大和平定の痕跡が全く何も残っていず、その崇神をお祀りしている神社もサッパリ見当たらなかった。崇神の大和は後世に大きく塗り変えられてしまったようで、それは即ち、畿内説も万世一系の見方もそのままで自明の前提とするのは危ないということである。
 本当は万世一系でなく実際には途中で王統の交替が有ったというのであれば、つまり 大和朝廷の真の始祖は実は応神だというのであれば、日向神話と日向の繁栄は実はピッタリ時代が合っている。この伝承を後世のフィクションと考えねばならない理由も特には無さそうである。

 論者の歴史観と直結したこうした日向神話批判、それは九州説の側にも有る。例えば、北九州の邪馬台国が直接東進して大和朝廷を建てたとする邪馬台国東進論、そのことの神話化が神武東征だと見る場合には、この構想もそのままでは日向神話と両立しない。北九州の邪馬台国と神武の出発地の日向とでは場所が合っていないからである。
 それでは畿内説と同じく日向神話を全否定するのかというと、そうではない人が多い。日向神話を全否定すると神武東征伝説も消えてしまう。それは困る。この立場の人は、神話の言う日向とは実は北九州だと言う人が多い。

 論者の歴史観が先に有っての神話解釈であるから、その意味ではこの「北九州の日向」説も畿内説と立場こそ違え同じく「始めに結論有りき」的な議論である。そして、同じような難点が有る。こうした神話の読み方が可能かどうかという以前に、そもそも大和朝廷が北九州から来た勢力だったとはとても思えない。
 古代の北九州に(南九州の)日向を凌ぐ古墳群は無いし諸県君牛に比べられる人もいなかった。(南九州の)日向が応神や仁徳の妃だけでなく雄略の皇后まで出しているのに、北九州は、皇后はおろかたった一人の妃すら出していない。しかも、男狭穂塚や女狭穂塚は単に抜きんでて巨大な墓だというだけでなく、それは河内の天皇陵と直結している。古代に実際に栄えたのは北九州ではなくて(南九州の)日向。北九州には大和朝廷の故地としての存在感が何も無かった。
 前節で見たように『延喜式』の時代の人が実際に考えていた神話の舞台も宮崎であるし、当然のことながら、神話の伝える日向の地にも邪馬台国を想起させる要素は何も無い。

 神武の妃に「日向国」の吾田邑の吾平津媛の名も有り、住吉神も「日向国」の神とされており、日向国は一般名詞ではないから、「北九州の日向」なんていう発想が出てくること自体が不思議であるが、念の為にその論拠も見ておきたい。
 論拠と言って、日向峠という地名とか、『古事記』に有る「此地は韓国に向かい・・・」という記事くらいのものと思うが、日向は一般名詞なので、日向峠は元々論拠と言う程のものでもない。例えば丹沢に日向薬師が有るが、これを論拠に「日向神話の舞台は丹沢だ」と言う人はいない。

 一方の「此地は韓国に向かい・・・」の記事の方は論拠になり得るが、この記事一つで、他の材料をすべて無視して「北九州の日向」を主張するのは木を見て森を見ない感が有るのは否めない。(まあ、結論が先に有っての立論なので、元々が森を見ない論ではあるのだが。)
 この記事に関しては、この「韓国」とは霧島山の韓国岳のことだとの反論も有るが、そうしたこと以前に、『古事記』の記事が資料的にどれだけ信頼できるのか?ということの方が大きいと思う。この小論で見てきた範囲でも、
 ●神武と珍彦が出会った速吸之門にしても、
 ●ニギハヤヒの降臨伝説にしても、
 ●氏族の先祖の登場時期を伝える伝承にしても、
 どれも『古事記』の記事には信頼性が乏しかったが、そうしたこと以上に、
 ●ニニギ伝説に於いても、(B)グループの『古事記』の伝承には後世の作為が多く見られ、本来の伝承をそのまま率直に伝えているとはとても見られなかった。

 「北九州の日向」の論拠がその『古事記』のみに見られる記事であり、さして信頼性が有るとも思われないが、畿内説にしろ東進論にしろ非常に有力な説なので、こうした議論の結果、日向神話の史実性を考えることが非科学的でナンセンスという雰囲気が生まれているとしたら残念なことである。結論が先に有る議論が特に科学的とも思えないということである。

 更には、東進論に関しては、邪馬台国「東遷」という表現にも非常な違和感が有る。東征を東遷と言い換えたのは、「何故邪馬台国ほどの国を捨てたのか?」ということの説明がつかなかったからと思われるが、言葉だけ換えてみても何も変わるわけではない。
 「大和も元々九州邪馬台国の勢力圏の内であり、神武は東征したのではなくて政治の中心を遷しただけだ」と言ってみても、実際の神武伝説が伝えているのはそうではない。大和のナガスネヒコはこれに対して戦っており、神武はそれを攻略して大和の地を手に入れた。実際の伝承が伝えているのは「東征」そのものである。
 そうした伝承の骨子部分はすべて無視して、「神武が九州から来た。」という漠然とした部分だけが(しかも北九州の日向と読み替えて)史実を反映していると主張してみても、無理が大きいなぁというのが率直な印象ではある。

 <追記>
 蛇足ながら、
「北九州の日向」という立場に立つ場合、日向神話の舞台は邪馬台国そのものである。高天原は更にその先。この立場に立つ人は、半島或いは大陸からの渡来が天孫降臨だとする。
 この場合、本文で述べたように言葉の問題が説明がつかないかと思うが、そうしたこと以前に、邪馬台国人が二世代や三世代前にやって来た新来の渡来人集団だったことは<倭人伝>の記事からは窺えない。<倭人伝>の記す邪馬台国は元々倭人国内の土着の一勢力である。
 つまり、「北九州の日向」説は<倭人伝>の記事も否定しないと成り立たない。まさか<倭人伝>は否定できないとするなら、降臨伝説(新来者)の方を否定することになるが、降臨も南九州の日向も否定して、残った部分だけの史実性を主張するというのも大変である。
 しかも、こうしたジレンマを無視するとした場合でも、ここから先、邪馬台国人の故地を探す手段も無い。高天原は神話の霧の中になってしまう。

 一方、始めに結論有りきでなく、崇神の源流と応神の源流の接点という発想で高天原を探すなら、アマテラスと卑弥呼のイメージが重なる高天原に辿りつく。我田引水ではあるが、こちらの方がどうもスマートなようである。

 
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