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 敗走の日向路


 明治十年八月十六日、西郷隆盛率いる薩軍は北川峡谷の内に完全に包囲されていた。北川峡谷は延岡市の少し北、「方四キロにも足りぬ」という狭い場所である。この時の薩軍は約二千と言われるが、一方、十重二十重と囲んだ官軍は数万。谷の出口もスリ鉢の縁のような周りの峯々も全て固められ、まさに袋のネズミである。官軍もさすがにホッとしたらしい。後に宮内大臣伯爵となった田中光顕(当時軍団会計本部長)は次のように書いている。
 「私共は、これで薩軍の運命も蹙まり殲滅されて、間もなく官軍も凱旋が出来るであろうと、数十隻の船を細島に廻して引上げの用意をして居った。その時西郷の弟の従道も私と一緒に陣中に居たが、西の方遙か可愛岳に硝煙の立騰るのを眺め、潜然として『兄ももう今頃は腹を切って居りましょう』といった時には、じつに何とも言えない気がした。」

 西郷はここで軍を解散し、降伏を望む者にはその道を選ばせ、大切にしていた陸軍大将の軍服も焼いた。従道が考えたように、西郷はここで自決するつもりだったと見る人も有る。しかし実際の展開では、彼は結局自決も玉砕も思いとどまり、徹底抗戦派の千人を率いてこの重囲を突破する。山刀や斧で密林を切り開き、夜闇に乗じて可愛岳を越えた。この可愛岳を司馬遼太郎氏は次のように描写している。
 「岩肌の多い可愛岳はこのあたりの天に突き立って、最高峰をなし、その崖や谷は峻険で、一軍が登るなどは尋常なことではない。
 可愛岳の東の壁は、俵野(註、西郷軍の居所)にのしかかって、頭上にあるかのような錯覚をもつ。むろん可愛岳の山頂の偉容を見るのは遠く延岡あたりから望むべきで、壁のそばの俵野の小天地から仰げば、壁の基部のほんの一部が仰げるだけである。」
 彼等はこの岩壁を登って鞍部の尾根に出たらしい。まさに決死行と呼ぶにふさわしい。山の上にも官軍が展開していたが、油断していて西郷軍に蹴散らされた。官軍は袋の中のネズミを捕り逃がし、深い山の中に西郷を見失ってしまう。ここから先、西郷軍は官軍の眼を逃れ険山難谷を辿って高千穂に向かった。

 その高千穂から先の西郷軍の足跡を記せば次のようである。
 八月二十一日 高千穂町三田井
   二十二日 五ヶ瀬町坂本
   二十三日 諸塚村松ノ平
   二十四日 南郷村神門
   二十五日 東米良(西都市)銀鏡
   二十六日 西米良村村所
   二十七日 須木村中薮
   二十八日 小林市

 こうして書いてしまうと簡単なようだが、実はこれは物凄い行程である。
 「かれらが遠く可愛岳から鹿児島に戻った経路というのは、地図で見るだけでも、肌に粟粒が立つような思いがする。」と司馬遼太郎氏は書いている。高千穂から先も険路の連続。しかも、至る所での官軍との遭遇戦を切り抜け振り切って、九月一日、西郷は遂に故郷の鹿児島に帰還する。信じ難い強靱さ。可愛岳を発ってから15日。突破行400キロ。鹿児島に帰り着けた者300人余。まさに壮絶な逃走行である。

 どうせ全滅するのであれば、せめて故郷の山で死にたい。彼等はそのことだけの為にあの重囲を突破し、この長く険しい山地を抜けて故郷に帰ってきたのだと思う。ともかく帰り着いた。その先に待っているのは城山での壮烈な最期であるが、でも、帰れて良かった。本当にそう思う。

 ニニギの話に戻りたい。本居宣長の考えた降臨の道をまさにそのままに、西郷軍はこの山地を駆け抜けた。高千穂から霧島へ、宣長の考えたこのコースには不思議な説得力が有る。
 実際にも記紀の描写に通じる地形であり、そこが膂宍の空国と呼ばれていたことも理解出来る上に、そこには古くから道も有る。その道は記紀の伝える降臨の地を結ぶルートであるが、北九州の邪馬台国から南九州の吾田へ行く時のコースでもある。
 ニニギ伝説をありのままに読むなら彼がこの道を辿って行ったことは極く素直に理解出来るが、この山地は後の世に源氏に敗れた平家の公達が落ちて行った地であり、北朝の圧迫を逃れて菊池氏が潜んだ地でもある。島津氏に敗れて日向を追われた伊東義祐が豊後に逃げたのがこの道であり、官軍の重囲を突破してきた西郷隆盛を鹿児島に帰還させたのもこの山地である。
 それがニニギの旅の舞台である。ニニギも同じこの道を歩いた。そのニニギの旅が「日向の魅力」といったプルの要因による旅であったはずもない。元々ニニギの時代の日向は特に魅力も無い貧しい辺境であるし、ましてここは伊東義祐が食物を求めるのにも苦労したという人家も殆んど無い山地。西郷隆盛にしても、平穏な帰郷であれば海岸沿いの平地の道を帰る。

 高千穂の地に現れた西郷にはその前段に可愛岳での決死の突破行が有った。同じように、高千穂の地に現れたニニギにもやはりそうした前段のドラマが有ったはずである。
 伊東義祐は大友氏を頼って豊後に逃げた。西郷隆盛は最後の死に場所と決めて鹿児島を目指した。彼等の逃走行も悲壮なものではあるが、ともかく目的地ははっきりしていた。それに比べて、同じこの山地を「国を求めて」「あてもなく」歩いたというニニギの旅には、彼等とはまた違った異質な寂しさが有る。それは、椎葉に落ちて行った平家の公達に通じる寂しさである。

 ニニギがこの山地にやって来なければならなかったプッシュの事情、残念ながら記紀が何も記していないのでそれは推測するしかない。
 <倭人伝>によれば邪馬台国は狗奴国と戦っていた。邪馬台国にとって苦しい戦いだったようだが、最終的にどうなったのか、<倭人伝>はそこまでは伝えていない。但し、戦いの結末を推測する材料が何も無いわけではない。記紀伝承の中に邪馬台国の存在が確認できない。記紀の時代、邪馬台国は既に無い。ニギハヤヒの東進に従った人々の中にも邪馬台国を想起させる名は無かった。
 となると、ニニギの降臨は一つの時代の終焉を伝えているのかもしれない。

 天孫が降臨した日、邪馬台国は滅びた。

 邪馬台国が敗れた日、ニニギとその一党は山道を東に逃げた、更に道を南に辿れば祖母山の横を抜けて高千穂に出る。敗残の落ち武者。恐らく軍勢と呼べるほどのものは従っていなかったのであろう。
 まあ、あくまで「一つの推測」であるが、いずれにしろそれに類する事態だったろう。『日向国風土記』逸文が伝えているのもそうした状況である。
 「時に空暗冥(くら)く、夜昼分かず、人物道を失ひ、物の色別き難かりき。」

 考古学的には日向に強い勢力がやって来た形跡は無い。そのことをもってニニギ伝説を全くリアリティーが無いと否定する人もいるのだが、分かってみれば簡明な話である。実際にも日向に強い勢力は来なかった。

 「日向には降臨したくなるような魅力が無いから日向神話には全くリアリティーが無い」といったプルの発想からの神話批判もまた、全く方向違いの批判だということのようである。
 ニニギは日向に降りてきたのではなく、日向に落ちてきたのだと思う。別に奇をてらった話ではなく、今までに見てきた一連の材料からの、それが自然の帰結である。

 
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