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 寂しいクマソ征伐


 景行やタケルの熊襲征伐伝説を読む度にいつも感じる違和感が有る。
 記紀の伝える通りならば景行は大和の大王であり、タケルはその太子である。当時の日本の最大勢力のトップとその第一後継候補。しかし、それにしては、彼等のクマソ征伐は、神武東征や神功の大和進攻に比べると、華々しい合戦も無く、あまりにも寂しい。

 ヤマトタケルは女装して相手を油断させ、相手が酒に酔いつぶれたところを倒した。単身敵の本拠地に乗り込んだ勇気は評価するにしても、大和の太子ならばもっと違った戦法も有りそうな気がする。
 それに、敵の本拠地と書いたけれども、相手の方に戦う意志が有ったようにも見えない。別に戦争の準備をしていたのでも何でもない。新築祝いの宴席だったのである。平和なクマソの村に他所者がやって来て、いきなり刃物を抜いてその首領を殺した。クマソの側から見れば、まるで通り魔事件。さぞビックリしたろう。

 それでもタケルのクマソ征伐はまだましである。タケルはともかく戦ってはいる。景行の方は、圧倒的な大軍でクマソ征伐に臨みながら、正面から戦うこともせず、クマソの娘を偽って寵愛し、彼女にその父親を殺させる。クマソ征伐というと勇ましく聞こえるが、その内容はこれだけのことである。他には何も無い。
 純朴なクマソの娘を騙して、自分は手を汚さず見事にクマソの首領を退治しているが、なんだかホストクラブに時々いる悪質なホストの手口のようでもあり、正直なところ英雄のイメージには程遠い。実際、彼等を卑怯と評する人もいる。
 考えてみると奇妙な伝説である。大和の太子が単身蛮地に乗り込むはずもないし、まして大和の大王がこんなホストのようなことをするはずもない。大和から遥々日向までやって来て、しかも日向で六年もの時間を費やして、その内容がこれだけである。
 まるでリアリティの無い話なので、これは史実とは関係の無いフィクションだと見る人も多いのだが、しかし、これが全くのフィクションであるのなら、彼等をもっと立派に描いて良さそうなものである。景行ほどの天皇を卑怯者とするフィクションを敢えて作ったというのも、なんとも奇妙なことである。

 要は、景行は大和の大王だという当たり前の常識、おそらくそこが違っているのであろう。イリビコ皇子は誰一人クマソと戦っていないし、景行のクマソ征伐にも大和からの遠征という実感がまるで無かった。今までに見てきたように大和の大王としての景行は虚像である公算が大きい。景行がニニギだと考えるなら見方もまた変わってくる。
 景行やタケルのクマソ征伐は元々がひどくチマチマしたスケールの話である。大勢力同士の激突は無いし、広い地域を平定した話でもない。逸話が伝えているのは辺境の小さな村での小勢り合いの話であり、彼等の戦術もひどく姑息なものである。神武東征や神功の大和進攻の伝説とは比べるべくもない。
 「大和朝廷による国土統一という壮大な歴史ドラマの伝説化」といったものとはハナから違うのである。
 そうであれば、この時の景行が本当に大軍勢を率いていたのかどうか、それはまるで疑わしい。実際、クマソ征伐でその軍勢が活躍したという逸話は何も無い。この軍勢は、遠征の主目的であるクマソ征伐の時に戦うこともせず、景行個人のセックスアピールを信頼して、それに全てをお任せして、高見の見物をしていたというのである。実際にはこんなことは有り得ない。

 思い出すのは(B)グループの伝承群が伝えるニニギの降臨に従ったお供の大軍勢のことである。肝心の時に何の役にも立たなかったあの軍勢のことである。(B)グループの伝承が伝えるようなそんな大軍勢なんて実際にはいなかった。
 それを裏付けるように、(B)グループの伝えるお供の大軍勢、戦闘の伝承が何も無いというだけでなく、この大軍勢が吾田に着いた時には煙のように消えてしまう。

 そうしたニニギの状況に景行が重なる。景行の周りに実際には軍勢はいなかったのではないか。
 それを裏付けるのが熊襲征伐の後6年も日向に滞在していることである。この間、戦闘は何も無い。大軍勢を従えての長滞在は兵糧の調達一つでも大変である。必要性が無ければそんな長滞在は普通はしないし、滞在される日向の側も迷惑である。
 というか、実際にはここでも大軍勢の存在感が何も無い。景行の日向での6年間、御刀媛を妃に迎えたり児湯の県に行幸したり、日向の休日を楽しんでいたようだが、ここに大軍勢の影は無い。ニニギのケースと同じである。この大軍勢、戦闘の逸話が無いだけでなく、その後の存在感も全く無い。

 というより、景行のクマソ征伐には最初から大軍勢の影が無い。九州に入る前、周芳では多臣祖武諸木、國前臣祖菟名手、物部君祖夏花の名が有るが、九州に入ってからは固有の人名が登場しない。
 速見では「群臣と協議」しており、熊襲征伐の前には「群臣に詔」し、この時「一人の臣」が景行にホスト作戦を提案しているが、熊襲征伐が終わるまで固有の人名は一人も出てこない。
 その後の筑紫巡行で登場する兄夷守、弟夷守は恐らく現地採用のスタッフだし、あとは葦北で山部祖の小左の名が有るだけである。武門の氏族の名は全く登場しない。景行のクマソ征伐に従軍したという伝承を伝える氏族が全く無かったということであろう。

 と言って、「日向の景行」そのものをフィクションとして否定も出来ない。<国造本紀>は日向国造が景行裔だと伝えており、実際にも、応神がその日向からやって来た。

 フィクションなのは「日向の景行」ではなくて、「大和の大王としての景行」の方だと思う。伝説を表面的に読んで景行やタケルを卑怯者と評するのは、彼等にやや気の毒なのかもしれない。
 大和の大王なら大軍を率いて戦う。こんなホストのようなことをするはずがないしする必要も無い。正々堂々と戦いたくともそんな戦力が無かった。卑怯だとか何だとか言っている余裕は無い。そう考えて初めてこの「寂しい熊襲征伐」の状況が見えてくる。

 ニニギは戦力と呼べるほどの戦力も無くクマソの地に向かった。貧しい辺境の地を「国を求めて」「当てもなく」歩いたという。そこはオシホミミが降臨に尻込みした地。ニニギにとっても未知の蛮地。ニニギは吸い寄せられるように日向に向かったのではなく、垂中を押されるようにやむなく前に進んだ。

 そもそもニニギは何故この山地にやって来たのか? 前章では断定を留保したが、景行の「寂しい熊襲征伐」を見ると、もう言い切ってしまいたくなる。
 ニニギが歩いた道は、壇ノ浦で敗れた平家の落人が辿った道である。北朝の圧迫を逃れて米良氏が潜んだ山地である。島津氏によって日向を追われた伊東義祐が豊後に逃げた道である。
 更には、我々がもっと良く知っている名前も有る。
 伊東義祐はこの道を逆向きに辿ったが、更に時代を下げて現代に近づけてみれば、降臨の道をまさにそのままに、高千穂から米良を通って霧島へ、この道を壮烈に駆け抜けた人がいる。西郷隆盛である。

 
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ヤマトタケル 日本平

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