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 タラシ三代


 名前の特徴とか皇位の継承ということからは、タラシヒコ天皇は崇神の子孫と見るより応神の先祖と考える方が説得性が有りそうであるが、そうしたことは彼等の伝承の中からも何か窺えるだろうか? 即ぐに頭に浮かぶことは、景行伝説がその前の崇神や垂仁の伝説とひどくつながりが悪いということである。

 崇神の勢力は、記紀の記載を全て信じるとした場合でも西は九州に届いていない。<崇神紀>にも<垂仁紀>にも九州での戦闘の話は無い。それが<景行紀>になるとガラリと変わる。突然クマソの話が出てくる。それまで北九州を平定したという話すら無いのに、景行はいきなり九州の最深部まで進出して日向に宮を構えている。話の流れがいかにも唐突である。
 しかも、<景行紀>の記すクマソ征伐は、崇神や垂仁の伝承とつながりが悪いという以前に、そもそも大和の要素が最初からまるで稀薄な伝承である。景行にしてもヤマトタケルにしても、彼等のクマソ征伐の旅は九州に入ってからは色々と逸話が有るのに、大和から九州に至る間には何のエピソードも無い。

 例えば<垂仁紀>によれば、穴門の辺りに伊都都比古という者がいて、渡来人に向かって「われは、この国の王である。自分の他には、別の王はいない。」と言って威張っていたらしい。この伊都都比古、元を辿れば伊都国人だったかもしれないが、今は崇神朝とは別の勢力。その領地を抜けて行くには一悶着有りそうなものだが、そうした記事は何も無い。
 要は、大和から遠征しているという実感が全く無い伝承である。大和を発った次の瞬間にはもう九州に着いていたかのようである。

 遠征という実感の無さ、実はそれは景行のクマソ征伐に一貫している。
 半年で襲の国を平定して、ところがその後も六年間も日向に滞在している。その間に戦闘は何も無い。御刀媛を妃に迎えたり、子湯県に行幸したり、平和な日々を楽しんでいる。日向の地が気に入って大和のことなんてまるで忘れてしまったかのようであるが、そんなに長い間大和を留守にしていて本当に大丈夫なのだろうか? 普通なら、遠征の目的を達した後は早々に大和に戻りそうなものである。

 このクマソ征伐、タラシヒコ天皇の時代に特徴的なエピソードで、景行にも仲哀にもタラシヒメの神功にもクマソ征伐の伝説が有る。しかし、同じ時代を生きていながらイリビコ皇子は誰一人クマソと戦っていない。ここでも、タラシヒコとイリビコは際立った対照を見せている。タラシヒコの名が元々イリ王朝とは全く異質だというだけでなく、彼等のクマソ征伐もイリ王朝の伝承の中でハッキリ異質である。
 白鳥伝説はどうも三輪王朝の伝承ではなさそうだったが、クマソ征伐も、ひょっとして崇神王朝が伝えていた伝承ではなく応神の先祖にまつわる伝承だったのではないか。仮にそう考えるなら、それはそれで結構辻褄は合っている。クマソ征伐の舞台の日向、応神はその日向からやって来た。

 そうであれば思い当たるということが有る。もしも景行が本当は応神の先祖だったというのであれば、景行の伝説は応神つまり神武よりも古い時代の出来事を伝えているのかもしれないということになるが、実際、そう考えないことにはとても理解出来ないという伝承が<景行紀>に有る。

 景行は北九州の土賊を誅殺しながら日向に向かったという。鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折、青、白、打猿(注1)、八田、国摩侶、結構多くの土賊の名前が登場する。ところが、ここで土賊のトップバッターとして登場する鼻垂、彼が居たとされるのが莵狭の川上である。
 はて? 普通に考えるとまるで理解出来ない話である。莵狭津彦と莵狭津媛が一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を造って神武をもてなしたのが同じこの莵狭の川上だった。記紀の言う通りならここは遙かな昔の神武の時代から天孫族シンパの宇佐氏の土地。ここで景行が歓待されたという話なら分かる。ところが、ここで景行を出迎えたのが宇佐氏ではなく、土賊の鼻垂だったという。
 記紀の言う通り景行が神武の子孫だったのならこんなことは有り得ない。神武の時代にはここは既に宇佐氏の土地なのであるから、景行がこの地を通ったのは神武よりも昔だったと考えないことには話の辻褄が合わない。
 この景行、タラシ三天皇の中で唯一固有名の残っている天皇であり、伝承的にも他の二人とは段違いに豊富な伝説を残しているが、前に見たデータでもその存在感は際立っていた。神武(応神)に匹敵する「伝説の大王」という印象が有った。神武(応神)の先祖で、そんな際立った存在感の有る人で、しかも神武より前の時代に日向への旅をした人!?

 もったいをつけて書くほどのことでもないのだが、景行から代数を数えると、景行、成務、仲哀、応神とここまでで四代である。一方、ニニギから代数を数えると、ニニギ、ホホデミ、ウガヤフキアエズ、神武。こちらもピッタリ四代である。これがたまたまの偶然なのかどうか。偶然にしては出来すぎのような感も有るということである。

 この日向三代とタラシ三代、どちらも何故か二代三代にさっぱり存在感が無い。面白いことにそんな所まで類似している。
 成務も仲哀もまるで実在感の無い天皇である。前に見たデータでもこの二人の時代に先祖が登場したとする氏族は殆んど無く、景行や応神の示す堂々たる存在感とは比べるべくもなかった。更に、この二人には固有名すら無い。成務も仲哀も共にフィクションで、景行と応神は本当は親子なのではないかとの説も有る。
 一方の日向三代、こちらも不思議と二代三代に存在感が無い。ニニギ伝説とは対照的にホホデミ伝説(海彦山彦伝説)は出来合いの神話という面が強く、ウガヤフキアエズに至っては何のエピソードも無い。それに加えて神武の別名のホホデミ、これがニニギの子である祖父と同名である。ニニギの子のホホデミとは実は神武その人なのではないか、つまり本当はニニギと神武が親子なのではないか、こう見る人もまたいる。

 本当は三代ではなくて一代? 日向三代とタラシ三代は妙なところまで似ているが、これもやはりたまたまの偶然ではなさそうである。
 天神の子が山の神の娘と結婚し、その子が海神の娘と結ばれ、そこで生まれた子が王朝の始祖になる。こうしたストーリーは結構色々な民族の神話に見られるという。天と地と海の申し子。確かにこれであれば王朝の始祖にふさわしい。日本神話もこのモチーフを借りてきて使っている。日向「三代」はそうした事情から出てきた代数であって、本来の伝承の代数とは関係が無かった可能性も有る。それが二代三代の存在感の無さなのかもしれない。そうした余計な枝葉を落としてみれば話の骨格は実に簡明である。
 実在感の有る初代のニニギと景行は共に日向に行ったという伝承を残しており、同じく実在感の有る四代の神武と応神がどちらもその日向からやって来た。しかも、この二組の旅の伝承、単なる方向感覚的な一致という以上の類似が見られる。

 (注1)本当の字はケモノへんに暖の右側。上手く表示されないので代字を使用。

 
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