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 椎葉から米良へ


 神話のニニギは高千穂峯に降臨した。そしてそこから丘続きの道を国を求めて旅をしたという。ニニギ伝説の中で具体的にイメージ出来る地名として最初に登場するのが高千穂峯である。
 周知の通り、この高千穂峯については西臼杵の高千穂と霧島の高千穂峯と二説有って決着がついていない。神話の中での降臨の地の話であるから普通であればそれがどっちであってもどうでも良いようなことではあるのだが、神話の背後に史実が有ったのかもしれないと考える場合はまた別である。まずは高千穂論争について簡単に見てみたい。周知の議論であるので極く手短かにすませたい。

 西臼杵説の論拠といっても多岐に亘るが、その中心は地名としての高千穂であろう。霧島山の付近には郷名などの大きな地名としての高千穂が残っていない。これに対し、『和名抄』によれば臼杵郡に智保郷が有り肥後の阿蘇郡に知保郷が有った。この二つのチホは一つながりの地域である。『日向国風土記』逸文では智鋪郷と書かれているが、いずれにしろこの地が古くからチホと呼ばれてきたことは確認出来る。一方の霧島にはこうした地名は無いようである。
 その霧島説、こちらの論拠も多岐に亘るが、その中心は地名としての襲と吾田であろう。前に見たように、本来の伝承を率直に伝えていると見られる(A)グループの伝承は全て、ニニギが襲の峯に降り、吾田に向かったと記していた。この襲、鹿児島を指すと見るのが素直である。霧島山であれば「襲の峯」と呼んでピッタリくるが、西臼杵の高千穂では若干違和感が有る。また、霧島山から吾田へ向かうという話であればそれは分かるが、西臼杵からでは吾田は遠い。ストーリーの流れからすると霧島の方が自然なように見える。
 どちらにもそれぞれもっともな理由は有るということである。片方に一方的に理が有るということでもなさそうである。

 こうしたことから、折衷説を考えた人も有る。本居宣長は、ニニギははじめ西臼杵の高千穂の峯に降り、その後に霧島山に行ったのだとする。なんだかいい加減な妥協の産物のようにも見えるが、固有の地名としての高千穂は西臼杵の地名であるからこれは尊重せざるを得ず、最終的に吾田に着いたというのであれば霧島山の近くも通ったのであろう。妥協の産物というより、伝わっている地名伝承から判断すればそうならざるを得ないということのようである。
 というのも、神話としての降臨は垂直方向の移動であり降臨の地もピンポイントで特定出来る点になるのが普通であるが、史実としての降臨を考える場合にはそれは水平方向の移動。降臨の地もピンポイントでは特定出来ない線になって当然である。高千穂か霧島か、二者択一的に考える必要は無いのかもしれない。実際、この高千穂にしても霧島にしても、宣長の言うように確かにどちらも全く根も葉も無い伝承とは考えにくい部分が有る。そして、この小論で今まで見てきた降臨のイメージとも実は意外にシックリ符合する。

 例えば西臼杵の高千穂。神話を離れて古代の旅を考える時にも即ぐに頭に浮かぶ地名である。
 ここで考えるニニギの降臨とは北九州から日向への旅であるが、北九州から日向に行く時古代の人はどういうルートを取ったのだろうか? 例えば日向国境に接する直入郡あたりから日向を目指すのであれば、普通は祖母山の横を抜けて高千穂に出る。古代に於いて豊後から日向に行くにはこれが最も一般的なルートだったらしい。つまり、古代には、西臼杵の高千穂は北九州から日向に入る玄関口。日本神話の言う「先ず高千穂に出た」という高千穂がこの西臼杵の高千穂なら、古代の旅のイメージにピッタリ合う。((図5-1)参照)

 宣長説に従うならニニギはここから霧島山に向かったことになる。高千穂から霧島へ、宣長の想定した降臨の道は実際には九州中央山地を縦走する長く険しい山道であるが、この山地について日高正晴氏は次のように述べておられる。(注1)
 「当時祖母山のような高山の山頂から、九州中央山地の背骨にあたる地形を眺めてみるとわかるはずであるが、この南北に走る山地一帯は、高千穂、椎葉、米良方面にかけて、大きな高低もない高原地帯になっていて、遙か遠くまで眺望することが出来る。」
 ニニギは「丘続きの道」を歩いたとされるが、記紀の描写と日高氏の説明とはピッタリ合っているようである。椎葉や米良は、その地に足を踏み入れてみるとかなり険しい山地であるが、もっと高所から眺めれば「丘続きの道」だということらしい。

 しかも、単に地形が似ているというだけでなく、それに加えて、この地には「膂宍の空国」という表現に通じる部分が有る。
 例えば椎葉。「日向国臼杵郡椎葉山村々様子大概書」によると、延享3年(1746年)椎葉の耕地が田2反歩余、畑49町6反歩に対して焼畑耕作は、492町2反歩余だったという。焼畑農業がそのほとんどであったことが分かる。
 この延享三年まで椎葉は無年貢地だったらしい。この年初めて人吉藩の検地が実施されたようである。それまでは山の自治に任されていたということらしいが、豊かな土地であれば自治が認められるはずもない。殆んど水田も無い山地なので放っておかれたということなのであろう。

 それは米良も変わらない。例えば、天保三年(1646)の『肥後国郷帳』によれば、米良主膳正領分(高246石余)の内、218石余は漆、茶、綿等の小物成高だったという。つまり、米は殆んど無い。米良もそういう土地である。澤武人氏は次のように書いておられる。
 「江戸期、米良地方には水田はほとんどなく、米は盆、正月にしか食せなかった。当地には春の平という、巨岩に覆われ焼畑もできない荒蕪地があったが、村人はこの地を水田とするため、大正10年工事に着工、巨岩を砕き、夜は蝋燭をともして作業に打ち込んだ。その結果、昭和2年頃には約7町歩の水田が出現した。村人はこれを協力一致田と呼び、今でも村の誇りとしている。」

 右の<休憩室>に置いた「仙人の棚田」、初めてこの写真を見た時は目を見張った。「一体何処から水を引いてくるのか?!」 ブログには以下の説明が有る。
 「下松尾地区は昔は水が乏しくどの家も焼畑を生業としており生活にも困る尾根に位置していたため、近隣地区住民から「下松尾には嫁にやるな」と言われる地区でした。今から約150年前、その時代の庄屋と地域住民が一体となり約4kmにも及ぶ水路を開拓し、米の生産も可能になり、人々の生活も安定しました。地域住民と共に歩いて来た棚田は今では他に類を見ない風景を形成しています。」
 綺麗な景観の背後には想像を絶する労苦が有ったようである。

 椎葉の東に接して諸塚村・南郷村が有り、米良の南が須木村であるが、こうした隣接地も似たような土地である。例えば、須木村で耕地面積の村域に占める割合は、最も広かった昭和二年でわずか2.2%にすぎなかった。九州中央山地とはそういう所である。だから協力一致田や仙人の棚田が尊いのであるが、豊かな水田地帯から来た人の眼には「膂宍の空国」と映ったかもしれない。

 この須木村で山は終わり、ここから南に山を下りれば小林盆地に出る。霧島山の麓である。つまり、高千穂から椎葉・米良と南北に走るこの山地は真っ直ぐ霧島山に向かっている。その先には吾田が有る。地名伝承のことだけではない。実際の地形もその地の性格も記紀の描写にピッタリ合っている。単に机の上で作られた話ではなく、ニニギは実際にもこの山地を抜けて行ったのではないかと思えてくる。
 しかし、それにしても、ニニギは何故あの邪馬台国からこの山地にやってきたのだろう?

 椎葉とか米良という地名を聞くと、即ぐに思い浮かぶことが有る。
 椎葉は平家の落人の隠れ里である。壇ノ浦で源氏に敗れた平家の残党は、この山地に逃れてきて、ここにひっそりと住みついた。椎葉から西に山を越せば五家荘、ここも平家の落人伝説の有る土地である。
 一方、米良の領主の米良氏がこの地に入った時期については諸説有って定説が無いようだが、地元では、南北朝期に征西将軍懐良親王の遺児良宗親王を奉じた菊池氏が北朝方の圧迫を避けて米良に入り、山中に潜居して米良氏を号し、南朝方の勢力回復を図ったとの伝承が残っている。
 平家にしても南朝にしても、どうもこの山地はこうした状況に陥った時に選ばれる土地だということらしい。本居宣長の想定した降臨の道とは実はそういう土地である。やはり、「プッシュ要因による降臨」の舞台にこそふさわしいということのようであるが、そうしたことは時代を下げてくればもっとより具体的に知ることが出来る。

 戦国時代日向の地に勢力を張っていたのは伊東氏であるが、天正五年(1577)、伊東義祐の時に島津氏に敗れて日向を追われた。この時、伊東義祐は西都から一ツ瀬川を遡上って米良に入り、この山地を北へ、高千穂を経由して豊後に逃げた。
 伊東義祐の辿ったこの道は日向古山道と呼ばれる古くから有る道で、本居宣長の頭の中に有った降臨の道のベースもこの日向古山道だったのかもしれない。つまり、逆向きではあるが宣長の考えた降臨のコースを辿った人が実際にいるのである。その時のことを『日向纂記』は次のように伝えている。
 「天正五年十二月、伊東三位の一行、米良の山中に落行かるさま最哀れなり。総て米良山中は在家も少なければ、食物を求むべき様なし、空舎のあるに入りて一宿ありしに、面々は具足を着しながら、雨に濡て夜を明す、十四日神門村に着せらる。此処は代々那須氏の所領なり。」
 ここで伊東三位とは義祐のことである。神門村は現在の南郷村神門。ここには百済王が落ちてきたという伝説も残っている。平家や南朝だけではない。本居宣長の想定した降臨の道は、過去に何度もこうしたドラマを見つめてきた土地だったということのようである。

 同じその道を、ニニギはお供の軍勢も無く、「国を求めて」「あてもなく」歩き、最後に、そこに国が有るか無いかも分からないような最果ての吾田の地に行き着いた。それが正史の伝えるニニギの旅である。
 ニニギの降臨とは何だったのか、おぼろげながらそれが見えてきたようであるが、しかし、まあここまではあくまでも想像を含んだイメージの話である。もしニニギがそうした旅をしたとしたら、それは記紀の他の部分にその痕跡を残している可能性が有る。そうした目で記紀伝承をもう一度読み直してみたい。

 (注1)日高正晴『古代日向の国』(NHK BOOKS)

 
  ー 目 次 ー  
 


<休憩室>
高千穂峡

<休憩室>
霧島山





(図5-1)
九州地形図













<休憩室>
焼き畑 椎葉












<休憩室>
仙人の棚田
    椎葉下松尾地区

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