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 黙秘したかった事実


 前段部分の、降臨の状況の方から見てゆきたい。(A)グループの伝承は全くシンプルなストーリーであるが、(B)グループの方は、「三種の神器」とか「お供の軍勢」とか「瑞穂国統治の神勅」とか、色々な要素が加わって華やかな降臨伝説になっている。要は、これらの要素が本来的な伝承と見られるかどうか?ということである。

 まずは「三種の神器」。これは明らかに後世の概念である。文献で確認出来るところでは、皇位の象徴としての神璽は、<継体紀>、<宣化即位前紀>、<持統紀>、『神祇令』、『古語拾遺』等、いずれも剣と鏡の「二種」としており、玉は無い。それが「三種」になったのは後世のことである。
 ニニギの場合も、仮に持っていたとしても二種の神器だろうということであるが、その二種の神器にしても、はっきり確認出来る最初が<継体紀>であるからかなり時代が下がる。それ以前に皇位の象徴としてのこうした神器が存在したのかどうか、それは確認が出来ない。遙かな昔のニニギの伝説に、しかも「三種」として登場する神器、後世の人の手による伝承への追加と見られる。

 蛇足ながら、本来の二種の神器(八咫鏡と草薙剣)は元々は崇神朝の神鏡・神剣でそれが伊勢に逃れたのではないかと考えた。
 その伊勢の服属は雄略朝期辺りだとするのが通説であり、そして二種の神器の文献上の初出が継体期である。応神伝説にも仁徳伝説にも二種の神器は登場しない。この小論のストーリーの流れの中でも応神の先祖が二種の神器を持っていたとは思えないということであるが、まあこれは蛇足である。

 次は「瑞穂国統治の神勅」である。天壌無窮の神勅として戦前には非常にクローズアップされていたもののようであるが、この神勅もどうもおかしい。
 こうした神勅を受けて降臨するのであれば豊かな「瑞穂の国」へ降臨すれば良さそうなものであるが、どういうわけか、ニニギが実際に降臨したのは貧しい辺境の日向である。そして、ニニギ、ホホデミ、ウガヤフキアエズの日向三代は、この辺境の日向に暮らし、この辺境の蛮地に没したとされる。神勅は実際には何の役にも立たない空証文だったようである。
 後に神武は大和を目指すが、大和のナガスネヒコはこれに対して戦っている。神勅なんか関係無いのであり、神武は自分の力で戦って大和の地を手に入れた。彼はナガスネヒコに対して「天神の子といってもたくさんいるのだ」とも言っている。神武本人には、自分がそうした大変な神勅を受けた特別な存在だという意識は特には無かったらしい。
 記紀のストーリーの流れの中では神勅が浮いて見える。やはり本来のストーリーにはそんな要素は無かったということなのであろう。

 (B)グループの伝承群は降臨を華やかに描いているが、三種の神器にしても神勅にしても政治神話として後世に付け加えられた潤色だと見られる。お供の軍勢については後で触れるが、結論を先に書いてしまえば、これも同じように本来的な伝承とは見られない。
 まあこれは三品氏以来のオーソドックスな見方であって別に目新しいものではないが、こうしたことを見てきたのはこの伝承に後段が有ったからである。問題は、伝承の後段部分についても同じことが言えるのか?ということである。
 降臨後のニニギに関しては、伝承間に内容の積極的な対立は無いが、消極的な対立は有った。(A)グループの伝承には「襲」とか「吾田」とか具体的にイメージ出来る地名が登場するが、(B)グループの伝承にはこうした地名は一切出てこなかった。  ここでも(A)グループの方を本来の伝承と見て良いのか? もしそうなら(B)グループの伝承群は何故これらの地名を無視しているのか? この小論の主題との関連で重要なのはこちらの方である。

 先ずは吾田。(B)グループの伝承にはこの吾田という地名は一切出てこないが、それでは吾田を否定しているのかというとそうでもない。実は(B)グループの伝承の中にも吾田はチラチラしている。
 例えば『古事記』はニニギが着いた所を「笠紗の御前」と記しているが、(A)グループの伝承地から吾田の文字を外しただけのことで同じ土地を指していることは明らかであるし、また、<第二の一書>も、吾田の名こそ出していないものの、その地の首長の名を事勝国勝長狭と伝えている。これも(A)グループの伝承と同じである。(A)グループの伝承によればこの人は吾田の首長であるから、<第二の一書>もニニギが吾田に着いたことを暗に認めてはいるようである。
 こうしたことを最も端的に示しているのが、ニニギがその地で出会った姫の名である。この姫は一般には木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)の名で知られているが、他に、鹿葦津姫と吾田津姫、二つの別名が有る。この三つの名前の中で最も有名な名前は木花開耶姫だろうとばかり思っていたのだが、どうも違うらしい。(表5-3)に明らかなように、三つの名前の中で最も強く意識されていたのは、この姫が「吾田の姫」だということである。この姫の名を伝える七つの伝承の内の六つまでもがこの名を記している。(A)グループも(B)グループも関係が無い。
 これはまた、一寸拍子抜けするような話である。いくら地名としての吾田の文字を外してみても、これでは頭隠して尻隠さずと言うか、(B)グループの『古事記』も<第二の一書>も、この姫が吾田の姫であることを知っている。

 消極的対立なるものの意味がはっきりしてきた。木花開耶姫が吾田の姫だということは周知の事実である。つまり、ニニギが最終的に落ち着いた所が吾田だったということも周知の事実だったということである。『古事記』の「笠紗の御前」も、<第二の一書>の事勝国勝長狭の名も、(A)グループの伝承とピッタリ符合していた。
 降臨後のニニギの伝説については異伝と呼べるようなものは存在していなかったということらしい。誰でもが知っているただ一つの伝説が有ったということのようである。しかし、(B)グループの伝承者達はそれをはっきり言いたくなかったということである。

 日向神話は官製神話としてのフィクションで、日向という地名の響きが良いので降臨の地に選ばれたと言う人も多いのだが、事実はどうも違うようである。事実は全く逆で、この神話に政治的潤色が加わる過程で神話の伝承者達はこの神話の中の日向の要素を薄めようと腐心している。襲とか吾田とか、具体的な土地のイメージが濃厚なこうした名称は何とかしてこれに触れずに済ませようとしているし、「膂宍の空国を、国を求めて歩いた」といった降臨後のニニギの行動に対しても口をつぐんでいる。政治神話の作者がこの伝承をどう見ていたのか、それがここに端的に表れている。
 都の貴族から見て辺境のクマソの国がイメージの良い地だったはずもないし、王権の神聖性を主張するのに「蛮地への降臨」は全くの逆効果なだけである。政治神話のフィクションならもっとましな所に降臨させる。(B)グループの伝承群は本当ならそうしたかったのだろうが、伝承の積極的な改変までは出来なかった。それが非常に強い伝承だったから黙秘することしかできなかったということであろう。それを端的に示しているのが「周知の吾田の姫」である。

 (B)グループの伝承群が華やかに飾り立てている部分は天上世界の話、観念としての降臨であるが、黙秘している降臨後のニニギの行動はこの地上での話、実在の人としてのニニギの旅の伝承である。それが(B)グループの伝承群から見て黙秘したくなる内容だったということである。
 (B)グループの伝承者達の気持ちは分かる。せっかく「瑞穂国統治の神勅」まで用意して華やかに降臨を描いたのに、実際にニニギが降臨したのは辺境の荒れ地の「膂宍の空国」。これでは全てが台無しである。改変が無理なら黙秘するしかない。
 日向神話が政治神話として構想されたものだったはずもないということである。逆から言うなら、(B)グループの伝承者達が黙秘している「膂宍の空国を、国を求めて歩いた」という伝承、ここにニニギの旅の「動機」を考えるヒントが有りそうである。

 
  ー 目 次 ー  
 



<休憩室>
アマテラスとニニギ
































(表5-3)
木花開耶姫の別名

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