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 第五章 美化された伝説

 降臨の動機について考えるといっても、別に奇抜なアプローチが有るわけではない。こうしたことは、やはりオーソドックスに考えてゆくのが一番である。
 まずは記紀がどのようにニニギの降臨を描いているのかということから見てゆきたい。実は、記紀はかなり違う二群のニニギ伝説を伝えている。どちらの伝承が本来の伝承か、それを考えてゆく中でニニギの旅の意味も見えてくるだろうと思う。

 二つのニニギ伝説


 (表5-1)は元々は三品彰英氏の整理されたものであるが、ここではオリジナルの表ではなく田村圓澄氏の著作(注1)より引用させて頂いた。オリジナルの表と違っているのは(A)と(B)というグループ分けのみである。このグルーピングは田村氏によるものであるが、大変使い勝手が良いので、この小論でも以後この区分に従って考えてゆきたい。
 (A)グループでは、降臨を指令する神は高皇産霊神であり、ニニギは真床追衾(神聖なふとん)で覆われた姿で降臨する。お供はいないか、いても少人数であり、三種の神器も持っていなければ瑞穂国統治の神勅も無い。非常にシンプルなストーリーである。
 ところが(B)グループになると、降臨を指令する神として 天照大神が加わってくる。『書紀』の<第一の一書>では、高皇産霊神は全く登場せず全部アマテラスの話になっている。更に、降臨の主体も違う。こちらの伝承では本来の降臨すべき神はニニギの父のオシホミミであるが、ニニギが生まれたのでニニギに変更になったとする。そして、お供は豪華になり、三種の神器やら神勅やら色々な要素が追加されている。

 (A)・(B)どちらの伝承が本来の伝承だったのだろうか? 三品氏以来、(A)グループの方が本来の伝承だと見るのが通説である。
 三品氏は日本神話の発展段階を、原始神話・儀礼神話・政治神話という三段階でとらえておられるが、記紀の編纂された時代は政治神話が完成した時代でもある。本来の素朴な伝承に色々と政治的潤色が加わって、(B)グループのような華やかな降臨伝説になったのだと見られている。
 降臨神話が本来のシンプルなストーリーに色々な要素を付け加えながらどう変化・成長してきたのか、そのこと自体はこの小論の主題と直接の関連性は薄いが、(A)・(B)どちらの伝承が本来の伝承かということはかなり重要である。
 それは、この二群の伝承がここで終わりではなく、この先にそれぞれ後段が有るからである。そして、この後段部分についても二群の伝承は際立った対照を見せているからである。

 (表5-2)は、前出の(表5-1)にヒントを得て、降臨後のことについても同じように比較してみたものである。この表にも面白い傾向が見てとれる。
 まず気がつくことは、降臨の説明では(A)グループの説明はシンプルで、それに対して(B)グループの伝承は色々な要素を追加していたが、降臨後のことに関しては全く逆だということである。(A)グループの伝承は降臨後のニニギの行動について具体的に伝えているが、(B)グループの伝承は降臨後のニニギに関して殆んど何も伝えていない。
(B)グループの<第一の一書>は降臨後のことに関して全く何も伝えていないし、『古事記』にしても伝えているのは着いた所が笠紗の御前という所だったということだけである。それがどこに在るのか、降臨後どのようにしてそこへ行ったのか、具体的な内容は何も無い。
 それに対して(A)グループの伝承群は降臨後のことに関して詳しい。そして、その内容は殆んど一致している。(B)グループの伝承にしても、何か記している時はその内容は(A)グループと違いは無い。つまり、降臨の描写の時と違って、ここには(A)(B)グループ間に内容の積極的な対立は無い。
 積極的な対立は無いが、実は消極的な対立は有る。(A)グループの伝承はニニギが襲の峯に降臨し最終的に吾田に落ち着いたとしている。しかし、(B)グループの伝承群にはこの襲とか吾田という地名は一切出てこない。100%対0%。これは際立った対照である。この小論では今まで吾田という地名を度々キーワードとして使ってきたが、実はこの地名は(B)グループの伝承群からは全く無視されている。襲と吾田という二つの地名について、(A)(B)二つのグループのスタンスは全く対照的である。

 今までに見てきたことを要約的にまとめるなら、(A)グループの伝承群は降臨の描写そのものはシンプルであるが、降臨後のことに関して具体的で詳しく、日向の襲の地に降臨したニニギが最終的に吾田に落ち着いたとしている。
 一方、(B)グループの伝承群は華やかに降臨を描いているが、降臨後のことに関しては殆んど説明が無く、特に襲とか吾田という地名については全く無視している。更に、膂宍の「空国」(そししのむなくに)も「胸副国」(むなそうくに)という意味不明の語句に置き換えている。

 二つのニニギ伝説には明らかな違いが有る。(A)グループの方が政治的潤色が少ないという通説に従うなら、本来の伝承が吾田とか襲といった地名を伝えていたということであろう。その神話に政治的潤色が加わる過程でこの地名が消された。それどころか、『古事記』や<第一の一書>では降臨後のニニギの旅そのものが丸ごと消されている。
 それが何故なのか? そこにニニギの降臨についてのヒントが有りそうであるが、その話に進む前に、(A)グループの伝承の方が本当に本来の伝承と考えて良いのか、念の為に確認しておくことが必要なようである。

(注1)、田村圓澄『筑紫の古代史』学生社

 
  ー 目 次 ー  
 

(図5-1)
天孫降臨説話比較



(図5-2)
降臨後の状況



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