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 ニニギの母語


 騎馬民族説とか越族説とか、こうした説に接する度にいつも感じる素朴な疑問が言葉の問題である。神話がニニギと呼んでいる天皇家の先祖はどういう言葉を話していたのだろう?
 言葉というものは結構強い。言語年代学では千年経っても基礎語彙の内のわずか20パーセント弱が失われるにすぎないとしている。つまり、数百年程度の時間では言葉はさして変わらない。千年二千年経っても方言差と呼び得る程度の変化であるのが普通である。天孫族が大陸から来た勢力だったのであれば、彼等の故地である大陸の側に大和朝廷の言語と方言差程度に近い言語が有って良さそうなものである。しかし、実際にはそうした言語は見当たらない。
 おそらく、渡来した天孫族の数がそう多くなく、先住の倭人の言語に同化したということなのだろうが、天孫族は支配者の側であり、そうした場合でも彼等の用語の中に彼等の母語の痕跡が何か残っているのが普通である。ところがそれも見つからない。ニニギの母語はどこに消えてしまったのか、前記した素朴な疑問とはそのことである。

 念の為に簡単に確認したい。
 もしニニギが騎馬民族であったのであれば、彼は騎馬民族の言葉を話していたはずである。北方騎馬民族といえば、ツングース、モンゴル、トルコといったアルタイ系の民族であろう。彼等が日本にやって来て征服王朝を興したのであれば、征服者であり支配者である彼等の母語の痕跡が大和朝廷の用語の中に何か残っていて良さそうなものであるが、しかし、そうした痕跡は認められない。
 北から来たのであれば、おそらく半島を経由してやって来た。天孫族の言葉は半島の言語だったのだろうか? 
 以前、「朝鮮語で万葉集が読める」といった類の本が話題になったことも有ったが、言語学的にはこれは全く無理のようである。それに加えて、文献で確認出来る範囲でも、『日本書紀』に「新羅語」という語が出てくるし、太宰府には新羅訳語もいた。通訳が必要だったというのであるから、半島の言葉は日本語とは違っていたということであるが、大和朝廷の用語にはこの半島の言語の痕跡も見られない。
 例えば、『日本書紀』によれば、王のことを新羅ではコキシと言い、高句麗ではオリコケと言ったという。また、『周書』<百済伝>によると、百済ではオラケ、またはコンキシと呼んだと有る。コキシとコンキシ、オラケとオリコケ。三国の用語には互いに関連性が見られるが、こうした呼称が大和朝廷の用語に全く影響を与えていない。

 一方の越族の言語も同じである。越族の実体については人によって見方が様々で必ずしもはっきりしないが、越語が日本語とは全く違う言語だったらしいことは分かっている。楊雄の『方言』とか袁康の『越絶書』といった文献に残っている越語の単語の中に日本語で解釈出来そうなものは見当たらない。
 そうしたこと以前に、越語と日本語は文法的にも違う。例えば、越語では塩を「余」と言い塩官を「朱余」と言ったようだが、日本語の文法であればこの塩官は「余朱」となるはずである。越語の語順は修飾語が被修飾語の後に来る。タイ語・ベトナム語等南方系言語に良く見られる語順で、日本語とは全く逆である。
 もしニニギが越族だったのであれば、 大和朝廷の用語の中に「鏡八咫」とか「国造大倭」(もっと正確に書くなら「造国倭大」)といった表現が色々出てきて良さそうなものである。しかし、一般にはそうした傾向は見られないし、タイ系、その他、越族の実体をどういう民族と見るにしろ記紀の中にこれらの民族の言語の痕跡らしきものは見当たらない。

 大陸の側に大和朝廷の言語と近い言語が存在しないというだけでなく、北にしろ南にしろ、大和朝廷の用語の中にも大陸の言語の影は無い。天孫族は本当に大陸から来たのだろうか?
 彼等が渡来してから 大和朝廷を建てるまでの時間。おそらく数十年、長くて百年二百年といったところであろうが、その程度の時間の中で、何の痕跡も残さないほど完璧に、彼等が日本語世界に同化したというのも不思議である。なにしろ天孫族は支配者である。彼等の用語のどこかにその素性を探れる手掛かりを残していて良さそうなものである。しかし、記紀をどう読んでみてもそこに騎馬民族の言語の跡は見つからないし、越語の影も無い。

 余談ながら、思い出すのは「アイスコーヒーを美味しく飲む方法」という話である。アイスコーヒーで困るのは氷が溶けるとコーヒーが薄まって不味くなってしまうことであるが、それを解決するにはコーヒーで作った氷を使うのが良いという。
 当然ながらコーヒーの氷は溶けてもコーヒーだから薄まらない。確かにこれなら最後まで美味しくアイスコーヒーを飲めそうであるが、逆に言うと、何の痕跡も残さずに溶けた氷とは、それはつまりコーヒーで作った氷だということなのではないか!?

 天孫族集団は日本語世界に同化したのではなく、実は最初から日本語が彼等の母語だった、そう考えないことには言葉の問題は説明がつかないのではないかと思う。一方、応神に感じる大陸の要素、こちらの方は実は日本国内でも説明がつく。
 応神以降に馬の文化が目立ってくるのは、それはこの頃から急増した渡来人のもたらしたものだと考えればそれで納得出来るし、応神に色濃い越の要素にしても、前に書いたように<倭人伝>の昔から元々倭人の風俗は越そのものである。いずれにしろ、応神の源流を遠い大陸に求めなくても、もっとずっと手近かな所で充分説明がつくようである。

  
 
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