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 第四章 神話の原郷

 天皇家の原郷、その候補地は論者により北方騎馬民族の地から南の呉越の地まで拡散してしまって、とても簡単には絞り込めそうにないが、要は、崇神の源流と応神の源流の交わる所、そこが高天原である。二本の線の交点を探すという発想で考えるなら、ひょっとしてそれを見つけることが出来るかもしれない。

 騎馬民族説・越族説


 天皇家の原郷は大陸に在るとする見方、順に簡単に見てみたい。先ずは騎馬民族征服王朝説。論拠は多岐に亘るが、その中心は日本に於ける騎馬文化の定着期であろう。
 日本にも古くから小型馬はいたが、騎馬に適したもっと大きな馬が半島から入って来て日本に騎馬の文化が定着するのは少し時代が下がる。古墳の副葬品に馬具等が多く現れるようになるのは五世紀以降、つまり応神以降のことらしい。そこから応神と騎馬民族を結びつける発想が出てくる。
 遙かに遠い北方騎馬民族の地からやって来た天孫族集団が日本に征服王朝を建てたとするこの騎馬民族説、スケールの雄大な、まさにロマン溢れる仮説であるが、もっとも、どこかシックリこないという部分も無いではない。

 騎馬民族の故郷には実際には行ったことは無いのだが、騎馬民族と関連して思い出す景色が有る。中国の華北平原。噂には聞いていたが物凄い広さである。
 北京から邯鄲まで路線バスで南下したことが有る。この間の約500キロ、右も左も前も後も、ただただひたすら平らである。360度地平線。どこまで行っても景色が全く変わらない。
 だが、この程度で驚いていても始まらない。これでも華北平原のほんの一部分。なんと、日本の面積の4/5程度に相当する31万平方キロもの広さが殆んど起伏の無い大平原になっているという。
 さすがに大陸の地形はスケールが違う。こんな土地では、疾風のようにやって来る騎馬民族はまさに脅威だろうと納得した。それで、この大平原に入る手前に、あんな物凄い万里の長城を築く必要が有ったのだろう。「鹿も四つ足、馬も四つ足」と言って部下を叱咤激励しなければならないような地形とは全く違う。おそらく、こうした大平原が騎馬民族の得意な舞台である。

 こうしたことを書き始めたのは、日本の地形が騎馬民族から見てそれほど魅力的でもなさそうだということも有るのだが、それだけではない。この見渡す限りの大平原、行けども行けども果てしなく小麦畑が続いていた。北は小麦だということを実感した。実はこれが書きたかったことである。
 神話のニニギは稲穂を持って降臨してきた。ニニギが大陸の北の方から来たと考える時に、それが一寸ひっかかる所である。何故稲なのか? 仮に私がこの地から日本に向かうとしたら、おそらくこの作り慣れた小麦を持って日本に行く。
 もちろん私が見たのは現代の華北であるが、古代においても、アワ、キビ、ムギといったものが北の作物だったらしい。稲ではない。

 言うまでもなく北は小麦、稲は南である。江南の地を旅してみれば、今度は逆に、眼に入るものは稲ばかりである。
 それだけでなく、江南は空気にも潤いが有るように感じる。蘇州も杭州も紹興も、ややオーバーな言い方をするなら水面と地面とどちらが広いか?というような土地である。多くの川や湖をつないで、運河や水路が網の目のように縦横に走っている。乾燥した華北からこの江南に来ると何となくホッとする。江南の自然は日本人に優しい。そう感じるのは、ここが稲作の故郷だからなのかもしれない。
 ニニギが稲穂を持って降臨してきたという伝説はもちろん神話にすぎないけれども、こうした伝承を残したということ自体、彼等天孫族と稲作の結びつきを感じさせる。実際、ホノニニギという名前も実った稲穂を表した名だとされているし、神話の高天原も稲作民の世界である。新嘗祭をはじめ皇室の神事にも稲作儀礼に由来したものが多い。天孫族は稲作民だったと考えるのがやはり素直であろう。
 もしニニギが騎馬民族だったのだとしたら、チーズとかヨーグルトを持って降臨してきて良さそうなものであるし、まして、南方騎馬民族ならともかく、北方民が稲を持ってやって来るというのはどう考えてもやっぱり妙である。神話の高天原にも騎馬民族の社会を連想させる要素は何も無い。

 それでは応神に南方的な要素が有るのだろうか? 余談的ながら、応神天皇にはシッポが有ったという伝説が有る。豊玉姫がワニだから応神のシッポもワニのシッポかなと想像している。
 まさか実際の応神に生物学的なシッポが有ったとは思えないが、海人族の中には龍蛇の子孫でシッポや鱗が有ったとの伝承を持った氏族が多い。そして応神の周辺にも日向神話にも海人族の伝承が濃厚にまとわりついている。
 応神と海人族の強いつながりを考えるなら、応神にシッポが有っても不思議ではないということであるが、応神が騎馬民族だったとすると、このシッポはなんとも妙である。騎馬民族にワニのシッポが有るというのもどうにもピンとこない話である。
 神武も応神も船で大和を目指している。神武軍は河内湖を渡り草香邑で船を下りた後、徒歩で竜田に向かった。さっぱり馬が出てこない。塩土老翁にしても珍彦にしても、神武の伝説で活躍しているのはみな海人である。南船北馬。稲だけでなく、応神のシッポの指す方角も南である。

 龍蛇の地と言えば、まず思い浮かぶのが江南の呉越の地である。龍蛇のイメージは元々東南の方角と結びついている。『論衡』<言毒編>に、「辰為龍、巳為蛇、辰巳之位在東南」と有り、『呉越春秋』には、「呉在辰、其位龍也、(中略)越在巳、其位蛇也、(後略)」と有る。実際にも呉のトーテムは龍で越は蛇であるが、長江にはワニもいた。更にその南にも、龍蛇族シッポ族が濃密に分布している。
 越族は龍蛇族であり、水田稲作民であり、用船に巧みな水人でもある。応神の先祖は南から黒潮に乗ってやって来た越族だったのではないかとする越族説、こちらもまた、ロマンに満ちた魅力的な構想ではある。実際、江南の自然は日本人に優しい。逆に言えば、越族から見ても日本が結構住み易い所なのかもしれないということでもある。

 しかし、実はこの説もどうもシックリこない。応神に越的要素が有るのは事実であるが、それは応神に始まった話ではない。元々、<倭人伝>の昔から倭人の風俗は越そのものである。これが応神がもたらした文化とも思えないということである。
 騎馬民族説にしても越族説にしても、どちらもスケールの大きなロマン溢れる魅力的な説なので一応簡単に触れたのだが、もっとシンプルに考えても良いのではないかと思える部分も有る。一つは言葉の問題である。

 
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