ニニギの旅 > 崇神とニギハヤヒ > つながった点と線

 

 つながった点と線


 それでは大和にイソが有るのだろうか?
 物部氏と聞いて反射的に出てくる名前に石上神宮が有る。物部氏の氏神であり、物部本宗家は後に石上氏と改姓した。
 考えてみれば、物部氏自身に元々明瞭にイソの要素が有る。崇神やニギハヤヒだけのことではない。伊勢のイソに加えて物部氏のイソ。ここまでイソが重なってくると、これらを「たまたまの偶然による同音」とするのも難しそうである。

 伊勢には五十鈴川が流れていたが、石上神宮には何か有るだろうか?
 石上神宮は主神の布都御魂の他に四神を相殿神として合祀しているが、この四神の中に五十瓊敷命がいる。案の定、やはり五十が出てきた。
 <垂仁紀>は、三十九年の冬十月、五十瓊敷命が茅渟の莵砥の川上宮におられて、剣一千口を作られたとのエピソードを伝えている。この一千口の剣は石上神宮に納められ、その後は五十瓊敷命が石上神宮の神宝を掌ることになった。この五十瓊敷命、言うまでもなく垂仁(五十狭茅)の皇子である。血統書付きの五十族である。
 まあ、崇神や垂仁が徹底した物部・穂積系であるし、ニギハヤヒとは実は崇神だというのであれば、物部氏の氏神に崇神朝が深く関わっているのも当然のことではあろう。
 余談的ながら、太田亮氏の『姓氏家系辞書』には、「伊勢国多気郡に伊蘇上神社と云うもあり。」と有る。イソの本場の伊勢に、度会郡の伊蘇郷と同じくそのものズバリの「伊蘇」の字を使ったイソノカミ神社が有るという。大和の石上神宮も本来は伊蘇上神宮だったのかもしれないと想像してみたくもなる。

 それはともかく、知りたいのは崇神やニギハヤヒや物部氏のイソと伊都国の関係である。伊都国の鏡を伊勢に運んだのは本当にこの集団だったのか? 伝承を裏づける材料が何か無いかと考えてみたら、「フツ」という言葉が有った。周知の通り、物部氏と縁の深い言葉である。
 例えば石上神宮の主神がフツノミタマ。この石上神宮、崇神の時代に伊香色雄が建立したとされる物部氏の氏神である。その祭神の名に「フツ」の語が現れる。
 或いは、フツヌシ(経津主)という神様もいる。『肥前国風土記』に物部経津主之神の名が有り、物部氏が信奉していた神だったと見る人が多い。実際、前に見たように、ニギハヤヒ東進のルートに沿って、四国の北岸から河内にかけて、フツヌシ神を祭る神社が点々と続いていた。フツノミタマにしろフツヌシにしろ、確かに「フツ」は直線的に物部氏を想起させる名前である。

 この「フツ」、一見すると意味不明のどこか奇異な響きの有る語であるが、通説では「刀で切った時の音(擬声語)」と説明されている。そうであれば、例えば居酒屋のメニューにも有る「マグロのブツ」とか「タコブツ」とか、そうした名にも通じる現代の我々にも馴染みの有る結構身近な語だということである。そう考えると親しみも湧くが、しかし、こうした通説的な解釈にはどこかシックリこない部分が有る。
 そもそも「ブツのミタマ」では何となく有難みが無いし、実際にも主要な神名に雷神ゴロゴロとか海神ザブンといった擬声語の神名はあまり見かけない。そして、それより何より、『日本書紀』の本文が八咫鏡について「ある本には真経津鏡(マフツの鏡)ともいう。」と記していることである。この名から美称の「真」を外せば要は「フツの鏡」であるが、鏡の名に「刀で切った時の音」はまるでピンとこない。 
 「フツ」を擬声語と見る通説には若干の疑問も有るということである。朝鮮語起源説等、実際にもこの通説と違う解釈もいくつか有るのだが、この語の語源を論じること自体はここでの主題ではない。「フツ」の語源はともかくとして、ここで言いたかったことは、八咫鏡に「フツの鏡」なる別名が有るということの方である。これが直線的に物部氏を連想させる名だということの方である。

 「フツのミタマ」がイソノカミ神宮で祀られていて、「フツの鏡」がイソ神宮に在る!
 この対応は偶然にしては出来過ぎである。大和のイソと伊勢のイソ、この同音はやはりたまたまの偶然といったものではなさそうである。「フツ」の語を介して二つのイソがピッタリつながる。
 八咫鏡はやはり本来は崇神朝の神鏡で、その八咫鏡を伊勢に運んだのもイソの要素を伊勢に持ち込んだのも、それは崇神朝(物部)ゆかりの人達だったと考えて良さそうである。

 くり返しになるが、この八咫鏡を御神体としてお祭りしている伊勢神宮、何故かその神官は三氏が三氏全て記紀ではなく『旧事本紀』の世界にその源流が在るという氏族伝承を伝えており、その祭祀の中心にいた倭姫は物部系の垂仁の皇女。彼女はヤマトの神を避けて皇都を出て、八咫鏡の安住の地を求めて各地を転々としたという。元々が皇祖神アマテラスとはミスマッチな印象の強い鏡だったのであるが、その鏡に、物部氏に直結する「フツの鏡」なる別名まで有るのである。

 この八咫鏡、後世に天皇家の手に渡りアマテラスのイメージとあまりにも強く結びついてしまった為に紛らわしくなっているが、ニギハヤヒも元々アマテル神、「フツの鏡」ならやはり本来はニギハヤヒの神鏡であろう。大和の地にヤマトの神が現れた時その「フツの鏡」が伊勢に逃れた。これで話が明快である。全てがスッキリ辻褄が合う。倭姫の旅はやはり崇神王朝滅亡時のドラマ。前節で考えたストーリーが「フツ」の名前で裏づけられた。
 伊勢のイソは伊都と直結していたが、伊勢に色濃いこの伊都の影、それが元を辿れば大和から来た要素だったということらしい。伊都国の鏡を伊勢に運んだのも、イソの要素を伊勢に持ち込んだのも崇神朝(物部)ゆかりの人達だったというのであれば、崇神やニギハヤヒの名前の頭に有るイソ、それを伊都国と結びつけて考えるのも別にコジツケでも何でもないのであろう。石上神宮もおそらく本来は伊蘇上神宮。冗談でなく、それが自然の帰結だということのようである。

 (図3-3)は今までの内容を図にしたものである。崇神(ニギハヤヒ)が伊都国人だということの証人が八咫鏡である。崇神とニギハヤヒと伊都国の三角形の中心に八咫鏡を置いてみればピタリと決まる。三角形の中心から各頂点に柱を立てたこの形は工学的にはかなり強固な構造である。論理的にも結構しっかりしているということではないか。
 (図3-4)は同じ三角形の中心に伊勢を置いたものであるが、こちらも同じようにピタリと決まる。まあ、これは蛇足である。

 余談的ながら、草薙剣もこの時に八咫鏡と共に伊勢に移ったとされる。『国史大辞典』(吉川弘文館)で「天叢雲剣」の項を見ると、直木孝次郎氏による次の説明が有る。(尚、天叢雲剣は草薙剣の正式名である。)
 「 天照大神はこの剣を三種の神器の他の二種(鏡と玉)とともに、孫の彦火瓊瓊杵(ひこほのににぎ)尊に授けて天下らせ、以来皇居に安置された。崇神天皇の時、神威をおそれて剣を神鏡とともに皇居から遷して大和の笠縫邑に祭り、さらに垂仁天皇の時、伊勢の五十鈴川のほとりに遷した。これが伊勢神宮の起源である。」
 その草薙剣、それをチラリと見たという神官の話からすると弥生時代の銅剣と見られるが、学者が断定を躊躇するほどの、銅剣としては他に例を見ない長大な剣である。類例のない大きさとなれば学者が断定を躊躇するのももっともであるが、考えようによっては八咫鏡とまさに好一対。文献の記す八咫鏡の巨大さにしても、平原古墓からウリ二つの巨大鏡が出土していなければ同じように信じ難い大きさではある。草薙剣がもし本当に銅剣であるのなら、まさにニギハヤヒの宝剣にふさわしい。

 
  ー 目 次 ー  
 
 

























































(図3-3)
崇神・ニギハヤヒ・
   伊都国の三角形

(図3-4)
崇神・ニギハヤヒ・
   伊都国の三角形2

                 BACK        NEXT

 
 ご意見・お問い合わせ等  info@ninigi.net

Copyright © 2019 ニニギの旅 All rights reserved.