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 伊都国人の痕跡


 この当時、北九州の倭人国の中で強力な指導者を出せそうな国は邪馬台国と限ったわけではない。そうした国はいくつか有る。
 例えば伊都国。<倭人伝>によれば、内政では大率という官がここにいて諸国を監察しており、諸国はこれを畏怖していた。外交に於いては倭人国としての迎賓館がこれもまた伊都国に置かれていて、魏の使者も通常は伊都国に滞在していた。内政でも外交でも、伊都国は倭人社会のまさにカナメのような国である。卑弥呼の都は邪馬台国に在ったが、実際の政治の中心はむしろ伊都国だったという印象さえ有る。
 実際、伊都国が非常に力のある国だったということは考古学的にも裏づけられている。こうした伊都国の力を示すものに例えば鏡が有る。(表3-2)は弥生時代の墓への鏡の多数埋納例をまとめたものであるが、須久・岡本を除いて、あとは全て伊都国の墓である。当時鏡は大変に高価で貴重なものだったろうから、北九州の中で伊都国の力が抜きん出ていたことがこれからも窺える。邪馬台国の場所を特定していないので比較しづらいけれども、鏡の出土状況だけから見る限りでは、伊都国の力は邪馬台国を凌駕していたのかもしれないとさえ思えるほどである。

 この伊都国の他にも、かつて漢から金印を貰ったことのある奴国、邪馬台国と戦っていたと伝えられている狗奴国、或いは大人口の投馬国、邪馬台国以外にも強力な指導者を出せそうな国はいくつか有る。こうしたことを念頭に置いて崇神やニギハヤヒの伝承を読み直してみる時、一寸興味を惹かれるのが彼等の名前である。

 『日本書紀』は崇神や垂仁の名を次のように記している。
 崇神:御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリビコイニエ)
 垂仁:活目入彦五十狭茅(イクメイリビコイサチ)

 言うまでもなくこのイリビコは崇神朝期に特徴的な名で、この王朝は俗にイリ王朝とも呼ばれるが、ここで注目したいのはそのイリではなくて名前の後半部分である。イニエとかイサチといった音には後世の人が机の上で作った名前とは思えない響きが有る。しかも、「五十」と書いて「イ」と訓ます名前、実はこれもまた崇神朝期に特有の名前である。
 (表3-3)に『日本書紀』における「五十」の出現状況をまとめてみた。実質的には<神功紀>が最終で、以後はこのての名前は無い。確かにこれは崇神朝期に特有の名前である。崇神朝と関係の有る人が多いが、崇神朝とは特に関係が無いと見られる人の名にも現れる。
 この五十の訓み、三十日(ミソカ)、四十日(ヨソカ)ときて、その次が五十日(イカ)。五十と書いて「イ」と訓ませる例は結構多いが、本来の訓みはやはり「イソ」であろう。島根県に五十猛伝説を伝える地で五十猛(イソタケ)と訓ます地名が有るし、『旧事本紀』には五十呉桃(イソクルミ)の名も有る。

 こうしたことを書き始めたのは、実はニギハヤヒの方にも同じ要素が有るからである。『先代旧事本紀』はニギハヤヒの名として次の五つを伝えている。

 正式名 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
     (アマテルクニテルヒコアマノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)
 別 名 天火明命(アマノホアカリノミコト)
     天照国照天火明尊(アマテルクニテルアマノホアカリノミコト)
     饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
     膽杵礒丹杵穂命(タキイソニキホノミコト)

 同書はニギハヤヒとホアカリを同一視しているので、この神の正式名はまるでジュゲムみたいなひどく長い名前になっている。ニギハヤヒとホアカリは本来は別々の神格と思うが、それはともかく、最後の五番目の名前は確かにニギハヤヒの別名であろう。前の四つの名前に比べて原初的な響きが有り、ひょっとしてこれがニギハヤヒの本来の名かもしれないとの印象も有る。
 この名に有るイソニキ。このイソに五十の字を当ててみれば、これはイニキとも訓める。イニエやイサチと同質の名前になる。崇神や垂仁だけでなく、ニギハヤヒの方にもイ(イソ)の要素が有る。このイ(イソ)は何だろうか?

 名前に佳字を選ぶということは多いから、例えば「末広がりの八」のように、五十に何か縁起の良い意味でも有ったのだろうか?
 そうした目で(表3-3)を眺める時、一寸気になるのが<仲哀紀>に登場する伊覩県主祖の五十迹手(イトテ)という名前である。五十瓊殖や五十狭茅と同類の名前であるが、この五十迹手に関する記事の中に「伊都は以前は伊蘇(イソ)と呼ばれていた」との記載が有る。
 人名の頭に地名を冠することは多いが、この五十迹手は実際に伊蘇(伊都)の人である。ゴロ合わせ的ではあるが、この名を「五十(イソ=伊蘇)の迹手」と読んでみたくもなる。

 それに加えて、ニギハヤヒの降臨に従った物部族の中に勇蘇(イソ)造という名も有った。前出の表で谷川健一氏はこの勇蘇造に「糸島郡磯崎」の地名を充てている。この磯崎、『大日本地名辞書』では<仲哀紀>に登場する伊蘇の地をこの磯崎に比定している。ニギハヤヒに従った人の中には実際に伊都国人もいたということのようである。

 まあ、ここまでではゴロ合わせの域を出る話ではないのだが、崇神にもニギハヤヒにもヤマトの名につながる要素が無かったのと対照的にどちらの名にもイソ(伊都)の要素が有り、この集団に邪馬台国人はいなかったけれども伊都国人はいたというのは事実である。
 そして、邪馬台国と並んでこの伊都国もまた崇神(ニギハヤヒ)のような強力なリーダーが出ておかしくない国である。鏡の出土状況から見る限りでは、伊都国の力は邪馬台国を凌駕していたのかもしれないとさえ思えるほどだった。
 しかも、これらの出土品は単に伊都国の力を示しているというだけでなく、伊都国人が並外れて鏡好きだったということも示している。平原古墓からは直径が46.5センチというとんでもない巨大鏡が出土している。こんなマンホールの蓋みたいな物凄い鏡を作るというのは、伊都国人の鏡にかける情熱も相当なものである。
 ところが一方、崇神がこれもまた折紙付きの「鏡大好き人間」である。彼が大和に現れた時、この地で鏡の副葬が始まった。もし崇神が伊都国人だったのであれば、大和に来る時に鏡も持って来るだろうし鏡師も連れて来るだろう。大和の文化が変わった理由が直線的に説明出来そうである。

 このイソと伊都国のゴロ合わせ、実は全くのコジツケとは言い切れない要素が有る。崇神(ニギハヤヒ)と伊都国のつながりを強く示唆する土地が有る。一寸方向違いのような感も有るのだが、それは伊勢である。

 
  ー 目 次 ー  
 
 
(表3-2)
弥生時代の墓への
  鏡の多数埋納例

(表3-3)
五十の出現状況

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