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 物部族の来た道


 崇神の源流といって、記紀の記載を信じる限りではそれは大和に在り他の地ではないのだが、この崇神には、本当はどこか他所からやって来た人なのではないかと思わせる要素が有る。
 一つは、(前節で見たような)崇神の登場に伴う大和の地での文化の大変動である。突然に畿内的要素の全く無い巨大前方後円墳が出現し、畿内本来の祭器である銅鐸が滅び、北九州の風習に倣った鏡の副葬が盛んになる。社会構造も墓制も祭祀も、全てがそれ以前の畿内の伝統との間に大きな断絶が有る。
 第二に、ニギハヤヒの伝説である。神話のニギハヤヒはどこか他所から大和にやって来た。もしこの伝説の背後に史実が有ったとするなら、ここに見たような文化の断絶も起きそうである。
 ニギハヤヒ伝説の背後には何等かの史実が有ったのではないかと見るのが物部東進論であるが、この立場の人は、物部氏の出発地として北九州を想定する人が多い。これも、鏡に象徴される崇神の北九州的要素と不思議に符合している。

 邪馬台国東進論とか物部東進論とか、こうした見方が色々出てくる背景の一つが地名である。北九州と近畿周辺には多くの類似地名が有り、たまたまの偶然では説明しにくい関連性が有る。<倭人伝>関連だけでも、例えば北九州の奴に対して大阪に難が有り、伊都に対しては伊勢が有る。或いは弥奴に美濃等々、音の似た地名が色々と見つかる。もちろん邪馬台と大和もこうした類似地名の一つである。
 <倭人伝>を離れれば例はもっと多くなる。安本美典氏は自説の邪馬台国甘木朝倉説の論拠の一つとして実に多くのこうした類似地名を挙げておられる。北九州(近畿)の形式で書けば次の通りである。
 加美(賀美)、朝倉(朝倉)、久留米(久米)、三潴(水間)、香山(天の香山)、鷹取山(高取山)、天瀬(天ケ瀬)、玖珠(国樔)、鳥屋山(鳥見山)、山田(山田)、田原(田原)、笠置山(笠置山)、春日(春日)、御笠山(三笠山)、野方(額田)、草ケ江(日下)、那の津(難波津)、平群(平群)、池田(池田)、三井(三井)、小田(織田)、三輪(三輪)、雲提(雲梯)、筑前高田(大和高田)、長谷山(長谷山)

 甘木朝倉を中心にして相対位置が或る程度対応しているものだけでもこんなに有る。中には偶然の一致や類似も有るかもしれないが、こんなにも多くの地名の類似の全てを偶然で片づけるのは無理であろう。その背後にかなり大規模な人の移動が有ったことを窺わせる。となると、問題はその移動の方向であるが、「北九州から近畿へ」と見るのがどうも説得的である。
 一つには、近畿より北九州の方が地名として古いと見られることである。地名としての大和は卑弥呼の時代までは遡上らなかった。同じように、北九州の伊都は三世紀には既に存在していたし奴は一世紀まで遡上って確認出来るが、大阪の難や三重の伊勢がそれより更に古い地名だと記している文献材料は無い。
 また、そんな古い時代に近畿の勢力が北九州の地名を塗り変えたことを示唆する材料も特には無いが、一方、畿内本来の祭器である銅鐸が滅び鏡が重視されるようになった時代であれば、鏡の文化をもたらした人達が近畿に故郷の地名を運んで来たと考えておかしくない。

 九州からの波は神武(応神)東征の一回だけとは限らないということである。銅鐸から鏡への交替はそれより少し前、崇神が大和に現れた頃の出来事である。そう考えると物部東進論が気になってくる。
 『先代旧事本紀』はニギハヤヒの降臨に従ったとされる多くの物部族の名を記しているが、周知の通りこの中にはその出身地を表しているとも見られる名前が結構多い。(表3-1)は谷川健一氏の推定による一覧表である。一見して分かる通り、ニギハヤヒの降臨に従ったとされる物部族に関する地名は北九州と近畿周辺に集中している。しかも両地域でダブッている地名も多い。
 ニギハヤヒは北九州と近畿という二つの地域に共に縁が深いというだけでなく、この両地域の間の地名の類似とも関係している。ニギハヤヒの降臨伝説とこの地名群、そこから出てくるのが物部東進という発想である。一例として、太田亮氏の『姓氏家系辞書』で「物部」の項を見ると、次の説明が有る。

 「神別第一の大族にして、その族長たる饒速日命当時、既に一大民衆を包括せしが如し。その原住地は詳らかならざれど、予輩の研究範囲内に於いては、筑後平原と考へられ、高良社はその氏神と推定さる。(中略)
 而して古典の伝ふる處に據れば、神武天皇御東征以前、饒速日命は其の部族を率ゐて、大和に移れり。その道筋については何等の伝へもなけれど、後の物部族分布より見れば、筑後川を溯りて、九州の東海岸に出で、四国の北岸を縫ひて、畿内地方に達し、河内、或は熊野より大和に入りしものと考へらる。」

 この太田説の背景については前に触れた。前に引用した谷川健一氏の文章に有ったように、四国の北岸には物部氏の同族がズラリと羅列しており、そして四国の北岸から河内にかけてフツヌシ神を祭る神社が点々と続いていた。
 北九州と近畿という二つの点だけでなく、この二点を結ぶ線上にも彼等の移動の痕跡と見られるものが残っている。それに加えて、この物部東進論に「ニギハヤヒ=崇神」という見方を重ねてみると、この東進が引き起こした結果も浮かび上がってくる。崇神の登場に伴う畿内の地での社会構造や文化の大変動。北九州を象徴する鏡の文化の流入である。物部氏が実際に東進したと考えると全てがスッキリ辻褄が合う。

 仮にこの物部東進論に従うなら、ニギハヤヒ(崇神)の出自を考える時のヒントの一つはこの物部族の出身地だということになりそうであるが、ところが、これが簡単には絞り込めない。
 物部氏の原郷を筑後平原とする前出の太田亮説については、「これは少し狭く絞りすぎだ」と見る人が多い。実際、(表3-1)に有るのは筑後平原の地名だけではない。筑後平原の地名ももちろん有るが、それよりむしろ目につくのが、筑前鞍手郡、遠賀郡、豊前企救郡といった遠賀川流域地方の地名である。こうしたことから、物部氏の原郷として遠賀川流域地方も重視する人も多い。
 なにしろ「一大民衆」とも形容されるような集団であるから、その原郷も狭くは絞り込めないということなのであろう。筑後平原も遠賀川流域もどちらも無視出来ないというのであれば、物部族の原郷は相当な広がりを持っていたということである。そうであればこの両地域の周辺も気になってくるが、そういう眼で(表3-1)を見ると、更には糸島郡とか宗像郡といった玄界灘側の地名も見られる。こうなってくると、物部東進論の言う物部氏の原郷とは殆んど北九州そのものだという感じである。

 北九州という所は元々そんなに広いエリアではない。「相攻伐歴年」という状態を収める為に一人の巫女を女王として共立することに合意出来る程度の広さのエリアである。もしそこに傑出した指導者が現れれば、小国の境を越えて多くの人がその下に結集することも有ったのかもしれない。その意味では特に奇異な話ではないのだが、一寸意外と言えば意外なのは、前出の(表3-1)の多くの物部族の中に邪馬台国を想起させる名が見当たらないことである。
 北九州の「一大民衆」を率いて東進するようなそんな強力なリーダーを出せそうな国と言えば、まず頭に浮かぶのは邪馬台国である。しかし、ニギハヤヒにヤマトの名とのつながりが見られなかったことに加えて、彼に従った人達の中にも邪馬台国人はいなかったということらしい。ここまで見てきた物部氏の東進、世に言う邪馬台国の東進とは全く別のもののようである。

 一寸寄り道になるが、世に言う邪馬台国の東進、それに対するモヤモヤした疑問が少し晴れてきた。
 前に見た北九州と近畿周辺の多くの類似地名群、これは北九州から近畿へ大集団が移動したことを窺わせる。そうした大集団のリーダーなら邪馬台国だろうというのが邪馬台国東進論であるが、邪馬台国とは全く別に北九州の「一大民衆」が東進した可能性も大きいというのであれば、これらの類似地名群が本当に邪馬台国東進の結果なのかどうか? 問題の所在はどうもそこである。
 というのも、邪馬台国の東進を示唆する伝承は元々どこにも存在せず、東進の中心人物もまるで分からなかった。崇神は邪馬台国人と見られず(崇神の時代の大和にはヤマトの名が確認できない)、日向から来た応神は邪馬台国と場所が合っていない。そうしたこと以前に、北九州には大和朝廷の故地としての存在感が何も無かった。なにしろたった一人の妃すら出していない。邪馬台国東進論は伝承としても事実としても全く裏付けの無い元々が検証しようもない仮説だったのであるが、一方の物部東進論の方は違う。

 こちらは実際にそれを伝える伝承が有り、東進の中心人物も分かっている。神話的に言えばニギハヤヒ、実際には崇神だったと見られる。しかも東進のコース上にその痕跡が点々と残っているというだけでなく、その東進が引き起こした結果も確認出来る。崇神の登場に伴う畿内の地での社会構造や文化の大変動。こちらの方は伝承的にも事実的にも裏付けが明快で、当然ながら地名のこともスッキリ説明がつく。
 例えば前に見た甘木朝倉を中心とした地名群と近畿の地名群の類似。安本氏は邪馬台国東進の結果と説明されているのだが、(表3-1)には朝倉出身の物部族の名も見える。朝倉もまた物部氏の原郷の一部だというのであれば、この地名群を運んだのは物部だったと考えて何の無理も無い。一方、これが邪馬台国東進の結果だとする積極的な根拠は実際には何も無い。
 邪馬台国東進論とは、ひどく紛らわしいことがたまたま二つも重なったことから生じた誤解のようである。一つは、大集団で移動した物部氏の原郷が偶然にも殆んど邪馬台連合の地そのものだったということであり、第二に、日向からやって来た応神の持ってきたヤマトという名が北九州の邪馬台国とたまたま同音だったということである。

 誤解が解けてみれば話は簡明である。多くの地名群を運んだのはおそらく物部族であるが、この大集団の中に邪馬台国を想起させる名は無い。ヤマトの名はこれより少し遅れて応神が日向から持って来た。
 東進論に対するモヤモヤした疑問もどうやら晴れたし、寄り道はこのくらいにして本題に戻りたい。要は、知りたいのは崇神の出自である。物部氏の原郷は広すぎて残念ながらヒントにはならないが、手掛かりになりそうなことが全く無いでもない。この当時、邪馬台国以外で北九州のリーダーになれそうな国となればそれは限られるし、それに加えて彼の名前である。
  
 
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(表3-1)
ニギハヤヒの降臨に
   従った物部族

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