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 ハツクニシラス大王の時代


 論を進める前に、準備作業として崇神の時代について簡単に見ておきたい。
 神武も崇神もハツクニシラススメラミコトという偉大な称号で呼ばれている。私見では崇神の方が元祖ハツクニシラス大王で、(非常に魅力的な称号なので)神武はそれをパクったのかと思うが、それはともかく、その崇神、実際にも大変な大王だったようである。

 この時代、大和の地で大きな変化が起きている。例えば前方後円墳の出現とか、銅鐸祭祀の消滅とか、鏡の副葬が盛んになることとか、彼の登場は大和を大きく変えたらしい。
 箸墓は「昼は人が作り、夜は神が作った」という。神の力を借りなければ造れないような巨大な前方後円墳の出現は、その背後に強大な王権の登場という社会構造の大変動が有ったことを示しているし、銅鐸から鏡への交替は言ってみれば文化大革命である。歴史がガラリと様相を変える。まさに「ハツクニシラス大王の時代」である。一つ一つの変化について順に簡単に見てみたい。

 「ハツクニシラス大王の時代」を特徴づける最大のものが前方後円墳である。それは、これが単に巨大な墓だというだけでなく、それ以前の大和の墓制(方形周溝墓)との間に明らかな断絶が有るからである。高橋護氏は次のように述べておられる。(注1)
 「方形周溝墓の地域の中では卓越した墳墓の形成はあまり発達せず、多少大きいか小さいかというだけで、質的には変わらない、非常に均質的なものが展開する。(中略)
 そういう方形周溝墓の中に忽然と巨大古墳が生まれるわけで、しかもその古墳の墓制では、一番内側の大きな石室は讃岐あたりで形成されたものが、そのままの形で持ち込まれている。古墳の墳丘の上を覆う石積みは、吉備的なものがそのまま使われる。おまけに、葬送儀礼の中で使われる祭器は、吉備で発達した特殊器台がそのまま使われる。そういう形で、全部借り物の寄せ集めという感じになって、本来の畿内的な要素は全く欠落する形でできている。そのあたりで箸墓古墳をどう理解するのか。あれが卑弥呼の墓と考えるとすれば、卑弥呼の出自を問う必要があるだろうということになる。」

 ここでの主題は卑弥呼ではなくて崇神であるが、崇神について考える時にも氏のこの指摘は示唆的である。それは、ハツクニシラス大王崇神がひょっとすると畿内の人ではない可能性も有るということになるからである。氏の言葉を借りるなら「崇神の出自を問う必要」が出てくるということである。

 この同じ時代、畿内の地で銅鐸文化が滅びた。
 かつて馴染んだ「畿内を中心とした銅鐸文化圏」という見方は現在は否定されているようだが、銅鐸が畿内の弥生時代を代表する伝統的な祭器であることは変わらない。その銅鐸が前方後円墳の出現に合わせるかのように滅びた。崇神は銅鐸に対して特に何の愛着も思い入れも無かったということらしい。
 ここでも、崇神の登場に伴う文化の断絶が有る。

 銅鐸に替わって彼等が重視するようになったもの、それが鏡である。
 弥生時代の畿内には墓に鏡を入れることは少ない。それが古墳時代になると多くの鏡が副葬されるようになる。畿内説の人は、それまで伝世されていた鏡をこの頃から急に墓に入れるようになったと説明するのだが、仮にそうであったとしても、新しく登場したこの強大な支配者集団が従来の畿内の伝統とは全く違う新しい文化を採り入れたのだということは変わらない。
 墓に鏡を入れるようになったという変化はインスタ映えが重視されるようになったという変化よりは重い。しかもそれが他所の風習に倣った変化だということである。鏡の副葬は元々が北九州の風習である。崇神は何故そんなローカルな宗教儀礼を採り入れたのだろう?

 畿内説の人には「日本の中心は神代の昔から畿内だった」という思いが有るが、その畿内に初めて強大な王権を築いた崇神が由緒正しい畿内人だったという保証も無いようである。
 この時代を象徴する前方後円墳。この新しい墓制は従来の畿内的な要素の全く欠落した墓だという。そしてこの古墳の出現に合わせるかのように、畿内の伝統的な祭器である銅鐸を使った祭祀が滅びた。代わって重視されるようになったのが、北九州の風習に倣った鏡の副葬である。応神だけでなく崇神にも九州の影が有るということである。

 (注1) 高橋護「邪馬台国時代の墓制」(『邪馬台国研究 新たな視点』朝日新
      聞社 所載)

 
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