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 武埴安彦と新城戸畔


 神武との絡みで言及されることの多い武埴安彦(たけはにやすひこ)、崇神の時代に反乱を起こしたとされる人である。その時のことを <崇神紀>は次のように伝えている。
 「武埴安彦と妻の吾田媛とは、朝廷を倒そうとして、軍を起こして急遽攻め寄せてきた。それぞれ道を分けて、夫は山背より、妻は大坂(奈良県香芝市逢坂付近)より、ともにやって来て、帝都を襲撃しようとした。」
 本隊と吾田媛軍、神武伝説に登場した本隊と女軍の関係を何となく思い出させるが、それはともかく、この武埴安彦の乱を察知したのはモモソ姫だったとされる。<崇神紀>によれば、察知した理由を彼女は次のように言っている。
 「わたくしは、武埴安彦の妻吾田媛が、ひそかにやって来て、倭の香山の土を取り、領布(ひれ)の端につつんで呪言をして、『これは倭国の物実(ものしろ)です』と申してすぐに帰っていったのを知っています。」

 天香山の埴土こそが大和の国の実体であり、この土を取るということが大和を奪るということにつながる、そうした信仰のようなものが有ったらしい。というのも、神武の伝説の中にもよく似たエピソードが有る。兄磯城を攻めるに先立ち、天皇の夢に天神が現れて、次のように教えられたという。
 「天香山の社の中の土を取って、天平瓮(あまのひらか:平らなかわらけ)八十枚を作り、あわせて厳瓮(いつへ:神酒を入れる神聖な瓶)を作って天神地祗を敬い祭れ。また厳呪詛(いつのかしり)をせよ(潔斎して呪言をとなえよ)。こうすれば賊は自然に平らぐであろう。」
 神武はこの教えに従い、埴土の呪術を行い、大和を平定した。

 良く指摘されることであるが、二つの話には不思議な類似が有る。どちらも大和を攻めた話であり、どちらの話にも女軍が登場し、そして、神武も吾田媛も同じ天香山の埴土に呪言した。この埴土の呪術の類似はとても偶然とは思えない。
 言うまでもなく吾田媛は直線的に神武を想起させる名であるが、実は武埴安彦の方も神武伝説から取られた名前ではないかと思われるフシが有る。<神武即位前紀>は次のように記している。
 「天皇は前年の秋九月に、ひそかに天香山の埴土をとって、八十平瓮をつくり、みずから斎戒して諸神をまつられた。そしてついに天下を平定することを得られたのである。そこで土を取った場所を埴安という。」

 武埴安彦、これはまさに神武の埴土の呪術を象徴する名前である。埴安は本来は土の神の名であり、実在の人の名としては元々かなり奇異な感じが有る。もしこれが神武伝説から取られた名だとするなら、彼の妻の吾田媛の名が直線的に神武と結びつくことも、その吾田媛が神武と同じように天香山の埴土に呪言したことも、共にスッキリ理解出来る。二つの話の間の類似はやはり偶然ではなさそうである。
 神武とは実は応神だというのであれば、神武が攻めた大和とは実際には崇神王朝のことである。そして、武埴安彦が攻めたのがまさにその崇神の大和である。万世一系を建前としている為に明示的には書けなかったものの、武埴安彦の伝説は崇神の王朝が日向から来た勢力の攻撃を受けたということを暗に言っているように見えるということである。

 全くの余談であるが、昔、「ビーナスの誕生」という2コマ漫画を見たことが有る。
 1コマ目はボッティチェリの名画ビーナスの誕生そのものである。美しいビーナスが生まれたままの姿で貝の上に立っている。
 2コマ目は、その同じビーナスを後方から描いたもので、なんと、名画と同じポーズで立つビーナスの前方は観客席になっていて、多勢の男達が歓声を上げている。
 いささか品の無い漫画であるが、物事は一面だけから見たのでは分からないということではあろう。逆に言えば、表からと裏からと両面から見た話が合っているのであれば、それは実際に有った話なのではないかということである。武埴安彦と吾田媛という名は、暗示的というより明示的である。神武(応神)の攻めた大和とは、やはり崇神の大和だったということである。

 更に言えば、崇神の伝説の中に神武の影が有るというだけでなく、逆に、神武の伝説の方にも崇神の影が有る。
 神武が大和を一応平定した後も、大和のあちこちに神武に従わず最後まで抵抗した勢力が色々いたらしい。<神武即位前紀>によれば、和珥の坂下に居勢祝、臍見の長柄の丘岬に猪祝、層富県の波多丘岬(注1)に新城戸畔という者がいて、共に武力を頼んで帰順しなかったという。一見すると単なる断片的な伝承であるが、こうした伝承の背後にどうも崇神の影がチラチラしているのである。

 例えば居勢祝(こせのはふり)。天理市の檪本の近くに現在も和爾の地名が残っており、神話の言う和珥の坂もこの辺りとされる。和珥氏の本拠地であるが、開化の后に和珥氏の女性がおり、武埴安彦の乱を鎮圧した彦国葺が和珥氏の遠祖とされる。和珥氏の名は応神の側にも見られるのでその帰属は必ずしも明快ではないが、ともかく、崇神を助けて神武と戦った和珥氏の名が実際に残っているのである。
 次の猪祝(いのはふり)も同じである。彼が居た臍見長柄丘岬(ほそみのながらのおかさき)、吉田東伍氏は山辺郡の長柄に比定している。ここは実は後の大和郷。即ち氏の言う旧名穂積の地、前に見た因縁ドラマの第二幕の舞台そのものである。
 臍見(ほそみ)は穂積のなまりとする見方も有るが、ここが穂積氏の本拠地だったのであればそこに神武に最後まで抵抗した勢力がいたというのも当然である。穂積氏が一族の本拠地をのしをつけて国造家に進呈したはずもない。最後まで戦ったグループが猪祝だったのであろう。単なる断片的な伝承と見える記事の背後に実在の氏族の必死の抵抗が垣間見える。

 居勢祝、猪祝、彼等の居た所もニギハヤヒ系勢力の強い所だったと見られるが、最後の一人の新城戸畔は尚更である。彼が居たのが層富県の波多丘岬(はたのおかさき)。この層富は、吉田東伍氏の『大日本地名辞書』の「添」の項に、「添は古書に層富とも記し、添上下平群にわたる大名と雖、その本拠地は鳥見に在り。」と有り、直線的にナガスネヒコ(トミビコ)を連想させる地名である。
 それでは波多丘岬とはどこか? 岩波版の『日本書紀』では、「通証、集解ともに、添下郡赤膚山(唐招提寺の西という)という。」と注している。現在も唐招提寺の西に赤膚山とか赤膚町の地名が有るが、ここは富雄から富雄川をほんの少し下ったところ、案の定「トミの地」である。降臨したニギハヤヒは河内の川上哮峯からこの地に向かい、ここでナガスネヒコの妹を娶ったとされる。単なる伝説というだけでなく、実際にも富雄川流域には物部系氏族の分布が密である。
 新城戸畔、彼はトミの地の真只中に居た人だったらしい。ここはまさにニギハヤヒ・ナガスネヒコ勢力の牙城。この地に神武に最後まで抵抗した勢力がいたという伝承には充分なリアリティーが有るが、それに加えて、この戸畔(トベ)という名称には一寸気になる部分が有る。

 記紀に散見される「トベ」なる呼称、その使われ方に明らかな特徴が有る。例えば『日本書紀』では<神武紀>以降で七人の「トベ」が登場するが、(表2-3、4)に明らかなように、<崇神紀>や<垂仁紀>では妃や妃の親族、或いは協力者であるのに対し、<神武紀>では全て土賊として扱われており、際立った対照を見せている。
 一方、『古事記』に登場する四人の「トベ」は全て物部、穂積系の天皇の時代の人で、<神武記>に一人も登場していないのが残念であるが、開化から垂仁までの時代の「トベ」は全て妃か妃の親族で、『日本書紀』の傾向とピッタリ一致している。単なる偶然とも考えにくい符合である。仮に「トベ族」なるものが有ったとするなら、このトベ族は崇神朝の同盟者で神武とは敵対していたということになる。そんなトベ族なるものが考え得るのだろうか?

 富来隆氏によれば、トベ・トビは本来は憑きもの神としての蛇神の名で、トメ・トミとも変化するという。トミと聞いて即ぐに思い浮かぶのはトミビコ、即ちナガスネヒコである。富来氏はナガスネヒコのトミもトベの変化形と見ておられるが、そのナガスネヒコのトミ族はニギハヤヒの同盟者で神武と敵対した。一方のトベ族は崇神朝の同盟者で神武と敵対している。ひょっとして、トベ族とはつまりトミ族なのではないか!?
 ニギハヤヒはトミ族の女性を娶ったが、一方、崇神朝にはトベ族の妃の名も見える。それより何より、新城トベの本拠地がトミの地そのものである。ここには『続紀』に登美郷の名が見え、『和名抄』に鳥見郷が有り、現在も登弥神社とか富雄の地名が残っている。このトミの地に、神武に最後まで抵抗したトベが居たのである。もしトベ族とトミ族が重なるなら、単に崇神とニギハヤヒのイメージが重なるというだけでなく、崇神朝の背後にナガスネヒコの影まで見えてくるということである。

 トベ族とトミ族のことはまあ余談であるが、要は、神話のニギハヤヒとは実は崇神だろうということである。神武とは実は応神だと見るなら図式的にニギハヤヒと崇神が重なるというだけでなく、実際にも、ニギハヤヒ系氏族の繁栄と没落がこの図式とピッタリ符合し、しかも、武埴安彦の伝説の中には神武の影が有り、逆に、居勢祝・猪祝・新城戸畔、彼等の伝承の背後には崇神の影がチラチラしている。
 崇神の前の大和は空白の欠史の時代で、その更に前はもう神話の世界。大和に新しい時代を開いた崇神の人物像は大和の最初の大王ニギハヤヒのイメージと始めから重なっている。ハツクニシラス大王、この称号もニギハヤヒにまさにふさわしいし、それより何より、この崇神や垂仁をお祭りしている神社が全く見当たらなかった。ハナから半分自明のようなことではある。

 ついでながら、崇神の宮が磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)、この宮の伝承地に在るのが志貴御県坐(しきみあがたにます)神社である。ここの祭神は当然崇神だろうと考えるのが普通であるが、実はニギハヤヒだという。まあ、これも余談である。

 ニギハヤヒのモデルが誰であったとしても直接的にはそれはそれだけのことなのだが、こうしたことに触れたのは、ひょっとしてここに天皇家の原郷を探す新しい視点が有りそうだからである。
 というのも、崇神系と応神系の間では王統の交替が有ったと見られるが、この二つの王朝は全くの無関係ではなく、崇神朝前史と応神朝前史はどこかで接点を持っていた可能性が有る。記紀が共にニニギとニギハヤヒは同じ所から来たと伝えていることである。
 崇神の源流と応神の源流をそれぞれ辿って行って、もしそこに接点が見つかるなら、そこが彼等の原郷なのではないかということになる。神話の高天原を、神話かぶせでなく検証可能な推論によって、実際の地図の上で指し示せる特定の土地として探せるかもしれないということである。

 先ずは崇神の源流を辿ってみたい。

 (注1)本当の字は口へん(クチヘン)に多。上手く表示されないので代字を使用。
 
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ビーナスの誕生










































表(2-3、4)
トベの人物像

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