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 橿原建都


 瀬戸内海を抜ければいよいよ大和である。その大和ではどうか?
 これはもう言うまでもないことである。ニギハヤヒ系氏族の天下だった大和が応神以降はまるで様変わりだった。物部氏や穂積氏が外戚としての地位を失い、替わって葛城氏や日向の諸県君が登場し、そして珍彦の子孫を称する大倭国造家が台頭してくる。大和の「半国許り」がこの氏族のものになっている。全く同じ筋立ての二回のドラマ。神武の大和平定伝説は応神朝期の史実とそのまま符合している。

 更に言うなら、大和を平定した神武はここに宮を建てるが、これがまた、応神が宮を建てたのとまさに同じ場所である。
 (表2-2)に有るように、神武も応神も同じ橿原に宮を建てている。ここが宮を建てるのにポピュラーな場所だったのなら特に注目するほどのことでもないが、この橿原という地は、欠史八代に含まれる安寧・懿徳・孝元を除いて、歴代の天皇でここに宮を建てた人は他にいない。欠史八代の史実性が怪しいことを考えるなら、神武と応神の符合はここでも際立っている。

 神武神話は後世に作られた全くのフィクションだと決めつける人もいるのだが、そう断じるのは乱暴に過ぎるようである。神武神話と応神朝期の史実の符合は、大筋のストーリーに於ける符合だけではない。例えば、森浩一氏によれば、この伝説は五世紀頃の河内の古地形に即して展開しているという。
 神武は難波崎から河内湖に入り草香で船を下りた。河内平野は古代には大きな湖だったらしいが、神武伝説もそうした河内の古地形を把握して展開している。しかも、この神武伝説には大川(淀川)が登場しない。上町台地を東西に開削した大川の工事は、梶山彦太郎・市原実両氏の研究によれば五〜六世紀頃に行われたと推定されており、神武伝説はそれ以前の、となると応神の時代の河内の古地形を伝えているということである。(図2-6)(注1)
 後世にフィクションとして神武伝説を創作したとされる人、素晴らしい時代考証である。

 或いは、『日本書紀』によれば、兄磯城を攻めるに当たって珍彦は神武に次のように進言している。
 「まず、わが女軍(めいくさ)を派遣して、忍坂の道から出撃させましょう。賊軍はこれを見てかならず精兵を挙げて迎え撃つことと存じます。そこでわが軍は強力な兵を急派して、墨坂方面に直進し、莵田川の水をとって、敵軍がおこした炭の火にそそぎ、火を消して、不意をつけば、かならず破ることができましょう。」
 神武はこの計略をほめ、この策を採用して兄磯城を破った。これで見ると珍彦は単なるガイドではなく、神武軍の参謀のような印象である。「これより先、皇軍は攻めればかならずとり、戦えばかならず勝った」と有るから珍彦の功は大である。
 ところで、これも森浩一氏の著作からの借用であるが、ここで登場した「女軍」。律令制の規定では兵士は全て男性であって女性の兵士はいない。後世の人が机の上で作った話だとするには、この「女軍」もまた一寸思いつきそうもないアイディアである。

 神武と応神の符合、もう充分という感じであるが、更に象徴的な符合が吾田とヤマトという二つの地名である。
 神武の出発地が吾田、日向での神武の根拠地の名である。ところが、住吉神を祀る津守氏の先祖の名に忽然とこの吾田の字が現れるのが応神の時代だった。しかもそれが津守氏の氏族としてのアイデンティティの確立する時代。住吉神も津守氏も応神と共に大和にやって来たということのようである。
 一方、東征の終着地が大和である。そのヤマトの名は、神話的には神武に由来するが、歴史的にはそれが登場したのは応神の時代だったと見られる。前に見たように、地名としてのヤマトも氏族名としてのヤマトも、はっきり確認出来るのはどちらも応神以降だった。
 ここに全てが集約されている。今まで積み重ねてきた推論は東征の終着地の大和できれいに完結するようである。

 日向〜豊後海部郡〜宇佐〜瀬戸内海〜大和。神武伝説の一つ一つに応神のイメージが重なっている。
 日向と豊後海部郡、この二つの地域が同じ時期に同じような特異な繁栄を見せるのは偶然とは思えない。日向神話と宇佐神宮の神事に同じ「鵜羽屋」が登場するのも偶然とは考え難い。物部氏の勢力の強い四国北岸に和田の地名が全く無いのも、神武と応神が同じ橿原に宮を建てたのも、同じように偶然の一致ではないのであろう。そんなに偶然が重なるはずもない。
 畿内説の人は神武東征伝説を全くのフィクションと見るのだが、そうではなく、どうもその背後には一定の史実が有ったということのようである。もっとも、九州説の人に多い「神武東征は邪馬台国東進の神話化」という見方も同じく難点が大きい。日向から豊後海部郡を通って宇佐へ、これは北九州の邪馬台国が東進する時には通るはずもないコースである。神武(応神)東征は邪馬台国東進とは全く違う別の出来事だったと見るのが良さそうである。

 応神については取り敢えず一段落であるが、先に進む前に、補論的に、応神(神武)の大和平定を違った角度から伝えている伝承に簡単に触れたい。それは、武埴安彦(たけはにやすひこ)と新城戸畔(にいきとべ)他の伝承である。

 (注1)森浩一「日本神話の考古学」朝日新聞社 より引用
 
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(表2-2)
歴代天皇の宮

(図2-6)
河内の古地形

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