ニニギの旅 > 応神東征 > 東征の海

 

 東征の海


東征伝説の後段の話に進みたい。神話の神武は瀬戸内海を東進した。先導しているのが珍彦である。その珍彦と神武の出会いを『日本書紀』は次のように伝えている。

速吸之門(豊予海峡)を通られたとき、一人の漁師がいて、小舟に乗ってやって来た。天皇はこれを召し寄せて、
「おまえは誰か」
と尋ねられると、答えて、
「私は国神で、名は珍彦と申します。曲浦(わだのうら)で釣魚(つり)をしておりましたところ、天神の御子がおいでになるとうけたまわりましたので、わざわざお迎えにまいったのです」
と申し上げた。そこで問われて、
「おまえは私を先導することができるか」
と仰せられると、
「御先導申し上げまする」
と申し上げた。

 神武と出会う前、珍彦は曲浦で釣魚をしていた。珍彦のホームグラウンドは「ワダ(ワタ)」という所だったらしい。
 (図2-4)は黛弘道氏の著作から引用させて頂いた(注1)が、「和田」という地名の分布図である。北九州から瀬戸内海、更には紀州や大和、つまり神武東征のルートに沿って和田の地名が濃密に分布している。黛氏はこれを珍彦関連の地名とされている。(図に有る椎根津彦は珍彦の別名である)
 図を見て頂けば直ぐに分かるが、この和田の地名、非常に特異な分布をしている。

 神話の神武は途中で安芸と吉備に立ち寄っている。瀬戸内海の本州側を進んだらしい。もちろんこれは伝説にすぎないが、その安芸や吉備をはじめ本州側には和田の地名がずっと続いているのに、伝説の神武のコースから外れている四国の側にはこの地名が全く見あたらない。和田なんてどこにでも有る地名かと思っていたのだが、全く違う。この地名の分布は神武伝説とまさにピッタリ符合している。
 しかも、単に神話と地名の分布が符合しているというだけでなく、珍彦が先導したとされるこのコースには実は不思議な説得力が有る。珍彦は何故本州側のルートを選んだのか? 逆に言えば何故四国の側は行かなかったのか? 二つに一つだからコインを投げて決めたようなことなのかというと、それが、必ずしもそうでもなさそうなのである。その背景を窺わせるようなことが有る。

 ニギハヤヒにも東進伝説が有るが、太田亮氏はニギハヤヒが四国の北岸を進んだと推測している。それは物部氏の分布からの推定である。要は、珍彦は太田氏の想定したニギハヤヒのルートは行きたくなかったということなのではないか。この四国北岸の土地柄について谷川健一氏が次のように述べておられる。(注2)
 「伊予宇和の苅田首については、貞観十二年に宇和郡の人である苅田首浄根たちに物部連をたまうという清和紀の記録がある。また伊予の越智(小市)国造は、物部連である大新川命の孫の小致命であり、風速(風早)国造は、物部連の祖の伊香色雄の四世の孫の阿佐利命であると『旧事本紀』の国造本紀は述べている。
 また讃岐の三野郡は三野物部の発祥地と見なされ、三野郡には阿刀連も見える。讃岐の東部から阿波国の北部にわたっては物部氏の同族が羅列している。
 このように物部氏の同族が伊予、讃岐に多いところから、太田亮は物部氏が四国の北岸を通って、経津主神を奉じながら、畿内に入ったと推定している。伊予では桑村郡に布都神社があり、阿波では阿波郡の建布都神社、河内には弥加布都命神社、比古佐自布都命神社がある。」

 四国の北岸には物部族がズラリと並んでおり、そして和田の地名は無い。物部氏の分布と和田の分布は際立った対照を見せている。珍彦が神武を先導したとされるコースには不思議な説得力が有る。彼は物部氏の勢力の強い所は避けて神武を案内して行ったかのようである。神武の目的地は大和である。神武はそこで物部氏の総本山のニギハヤヒ王権に戦いを挑む。それまでは余計な消耗は避けようとしたのかもしれない。
 神武伝説は全くのフィクションだと言う人もいるのだが、和田の分布だけでなく、全く逆の立場の物部氏の分布までもがこの伝説とピッタリ符合している。異質な二つのデータが共に伝説を裏付けているというのでは、簡単にこれをフィクションと片づけるのも難しそうである。神武は実際にもこの海を東進したのではないか。だからこそこれだけの地名群が残ったのであろう。そう思えてくる。
 もしそうなら、珍彦が神武を先導したとされるルート上、和田の地名が濃密に分布している本州側には応神の影が有って良いはずである。途中で立ち寄ったとされる安芸と吉備について簡単に見てみたい。

 安芸と伊予の中間に有る大三島、国としては伊予の国に属していたようだが安芸からも目と鼻の先で、本州側を進んでもこの島の横を抜けてゆくことになるが、この大三島に大山祗神が祭られている。(図2-5)全国のヤマツミ信仰の本家のような位置づけの神社らしい。木花開耶姫はこのヤマツミの娘とされており、隼人から厚く信仰されていた神である。
 そのヤマツミがここに来たのはいつ頃のことか、『釈日本紀』の引く『伊予国風土記』逸文には次のように有る。
 「伊予の国風土記に曰く、乎知の郡。御島。坐す神の御名は大山積の神、一名は和多志の大神なり。是の神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇の御世に顕れましき。」
 この伝承に見える天皇は仁徳天皇である。つまり、神武東征のコース上に、応神の即ぐ次の仁徳期になると隼人と縁の深いヤマツミが進出している。神武と応神はやはりここでも重なっているように見える。

 神武が次に立ち寄ったのは吉備である。この吉備は応神と縁が深い。<応神紀>によれば応神の妃に吉備臣祖である御友別の妹の兄媛がいる。応神はこの妃が好きだったらしく、彼女が吉備に帰った時には彼女を慕う歌を詠んでいるが、それだけでなく、吉備に行幸までしている。
 安心できる土地でなければ行幸はしない。応神と吉備勢力は友好的な関係にあったのだろう。神武が吉備に立ち寄ったという話とピッタリ符合しているように見える。蛇足ながら、『日本書紀』にも『古事記』にも、応神が四国北岸に行幸したとの記事は無いし、四国北岸出身の妃の名も無い。

 日向〜豊後海部郡〜宇佐と見てきた神武(応神)の旅は、この瀬戸内海にもはっきりその痕跡を残しているということのようである。和田の地名の分布も物部氏の分布もこの伝説と符合しているというだけでなく、神武が立ち寄ったとされる安芸や吉備には応神の影が有るのに、伝説の神武のコースから外れている四国北岸には、和田の地名が無いだけでなく、応神の影も無い。
 この瀬戸内海では戦闘の記事は無い。それはまるでリアリティーの無い話だとして、そのことをもってこの伝説を全くのフィクションと断じる人もいるのだが、そう簡単に決めつけも出来ないようである。そうではなく、戦闘のリスクの少ない土地を選んで珍彦が神武を先導して行ったというのが実際だったのだろう。この珍彦、後で触れるが、単なるガイドというより神武軍の参謀のような印象が有る。

 (注1)黛弘道「海人族のウジを探り東漸を追う」
    (「日本の古代 7」中央公論社 所載)より引用
 (注2)谷川健一「白鳥伝説」集英社 より引用
 
  ー 目 次 ー  
 
 

図(2-4)
和田の分布







































図(2-5)
大三島

<休憩室>
隼人舞像
 (大三島 大山祇神社)
                 BACK        NEXT

 
 ご意見・お問い合わせ等  info@ninigi.net

Copyright © 2019 ニニギの旅 All rights reserved.