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 日向から来た応神


 記紀は応神が北九州から来たと伝えているが、その前提となっている神功伝説の史実性は怪しく、その神功の背後にすら日向の影がチラチラしている。事実をありのままに見る限りでは応神は実際には日向から来たのではないかと思えてくる。神武東征とは応神の東征だったのではないか? 神武東征のコースを順に辿ってみたい。

『日本書紀』では、日向を出た神武は速吸之門(豊予海峡)で珍彦に会い、宇佐で歓待された後、筑紫国の岡水門に着く。その後は、安芸、吉備と瀬戸内海を東進して大和に向かう。(図2-3)『古事記』も基本的には同じで、珍彦と出会った場所を明石海峡としている以外はほぼ同じである。
 邪馬台国東進の神話化が神武東征だとする立場では、日向から北九州までの前段の話はフィクションで、北九州から大和までの後段の部分のみが史実を反映しているということになるのだが、神武東征とは実は応神の東征だと考える場合、この前段の話には相当なリアリティがある。日向、豊後海部郡、宇佐、これらの土地は応神朝と縁が深いからである。逆から言うと、これらの土地は北九州の邪馬台国が東進する時には通るはずもない土地である。

 神話の神武は日向から東征に出発した。
 その日向は、前節までに見た通りである。四世紀までの何も無い貧しい辺境の日向が、応神朝期の五世紀になると突然に様変わりの大変な繁栄を見せる。日向の古墳群は九州の中でその数で抜きんでており、その巨大さで他を圧している。それに対応して大和の地では、日向の諸県君が応神朝の有力な外戚として登場する。
 見てきたように、応神朝と日向との強い結びつきは明白である。男狭穂塚と女狭穂塚は河内の天皇陵と直結していた。日向には応神朝の影が有り、応神朝には日向の色が濃い。応神が本当は日向から来たのではないかという仮説は、取り敢えず出発地の日向に関しては充分なもっともらしさが有るようである。

 神話の神武は、日向を発ったあと速吸之門で珍彦に出会った。
 この「速吸之門」については二説有るが、前に見たように『日本書紀』の記す豊予海峡の方が説得的である。神話を神話として読む場合でも豊予海峡の方がストーリーとして自然であるが、それに加えて、考古学的に見た豊後海部郡の特異性のことが有った。
 佐賀関半島には、五世紀を中心に眼を見張るような勢いで古墳の築造が行われる。しかし、その前の時代も後の時代も、ここは何も無い寂しい辺境だったらしい。日向の五世紀と同じく豊後海部郡の五世紀の繁栄もひどく特異であるが、『日本書紀』に従ってここが珍彦の故郷だと考えるなら全てがスッキリ納得出来た。
 しかも、単に珍彦の郷里が応神朝期に繁栄しているというだけでなく、珍彦の子孫を称する氏族が大倭国造として歴史の前面に登場してくるのが同じその応神朝期である。珍彦は実際には応神の時代の人だったと見られる。ここでも、神武の神話と応神朝の歴史がピッタリ符合している。

 神武は更に進んで宇佐に着いた。
 ここで神武は歓待されたようである。「莵狭津彦と莵狭津媛がいて、莵狭の川上に一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を造って御馳走申し上げた」と『日本書紀』に有る。『古事記』の方も、宇沙都比古、宇沙都比売、足一騰宮と字が違っているだけで内容は同じである。
 <宇佐氏系譜>によれば、このウサツヒコとウサツヒメの父の天三降命は、ニニギノミコトの日向への降臨に供奉し、後に勅によりこの宇佐に移ってきたのだという。日向から来たニニギゆかりの一族の地。こうした伝承からすれば伝説の神武がこの宇佐に立ち寄っているのもここで歓待されているのも当然のことであろうが、単にそうした伝承が有るというだけでなく、実際にも、この宇佐には日向とのつながりを感じさせる要素が有る。

 例えばこの地の宇佐神宮。ここの御神体の薦枕(こもまくら)は鵜羽屋殿という所で作られるが、この鵜羽屋殿の屋根は、その名の示す通り鵜の羽根で葺かれるのだそうである。即ぐに頭に浮かぶのは言うまでもなく豊玉姫の伝説である。彼女は産屋の屋根を鵜の羽根で葺き始めたが、葺き終えない内に生まれてきたのがウガヤフキアエズ、神武の父神である。
 鵜の羽根で屋根を葺くというのはかなり珍しい風習であるし、しかも片方は産屋で一方は御神体を作る場所、両者の類似はとても偶然とは思われない。鵜と言えば隼人。ここ宇佐には、日向神話を語り伝えた人達と同じ文化を持った人達がいたということであろう。
 東征伝説に宇佐が登場するのは偶然ではなさそうである。ここ宇佐には日向や隼人の影が有る。まさに神武伝説の舞台にふさわしい土地である。伝説が生まれたのにはそれだけの背景が有ったのだろうことを窺わせるが、ここで言いたいのはそのことではない。
 この宇佐神宮に実際に祭られているのが神武天皇ではなく、周知の通り、応神天皇である。ここでもまた、神武伝説ゆかりの地に応神がキッチリ顔を出す。

 応神を祭る八幡宮は京都の石清水や鎌倉の鶴岡等あちこちに有るが、そうした応神信仰の総本山がここ宇佐である。しかし、それにしてもどうして宇佐と応神が結びついたのか、これは結構古くから指摘されてきた大きな疑問である。普通に考えると宇佐と応神を結ぶ線は何も無い。応神伝説に宇佐は全く登場しない。記紀を表面的に読む限りでは宇佐は応神と縁もゆかりも無い土地である。
 通説では、後世に筑前海岸に興った応神信仰が宇佐に流入し宇佐氏等の祭っていたローカルな神と結びついたとするのだが、素朴な疑問が有る。この宇佐が本当に応神と縁もゆかりも無い土地だったのだとしたら、そんな片田舎のローカルな神がどうして朝廷からあれだけの尊敬を受ける存在になったのか。なにしろ、道鏡が天皇になるのを阻止したほどの権威を持った神である。通説ではそれがどうもはっきりしない。

 宇佐と応神、そこにはもっと直接的な接点が有ったはずである。神武伝説がそれを記していると考えるなら話がスッキリする。神武ゆかりの日向や豊後海部郡が応神朝期の五世紀にそろって大変な繁栄を見せていたが、そのルートの延長線上に在るのが宇佐である。宇佐で歓待された神武とは実は応神だと考えるなら話は明快である。逆に言うと、それ以外では宇佐と応神のことは説明がつかないのではないかと思う。

 日向や豊後海部郡に続いてこの宇佐でも、神武東征とは実は応神の東征だったと考えると話の辻褄が合う。神武のルート上にずっと応神の足跡が残っているように見える。本当にそうなのか? それは伝承の後段部分も見てみれば分かる。

 (注1)井上光貞監訳『日本書紀』中央公論社 より引用
 
  ー 目 次 ー  
 
 

(図2-3)
東征ルート(書紀)         (注1)

<休憩室>
神武の船:宮崎神宮大祭















<休憩室>
豊玉姫

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