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 虚構の神功


 記紀は応神が北九州から来たと伝えている。しかし、不思議なことに、応神朝の中の九州の要素は殆んどが南九州であり、北九州の要素はまるで稀薄である。応神は本当に北九州から来たのだろうか?

 応神が北九州から来たという伝承の前段に在るのが、北九州を舞台にした華やかな神功伝説である。仲哀天皇と神功皇后はクマソ征伐の為に北九州にやって来たが、「クマソではなく新羅を攻めよ」という住吉神の神託が下る。神託を信じなかった仲哀は変死するが、一方、神功は神託に従って新羅に遠征し、多大な成果を上げて帰還する。応神は胎中天皇としてこの遠征に同行し、新羅から帰還後に北九州で生まれたとされる。
 こうした神功伝説の背後に何等かの史実が有ったのであれば応神は実際にも北九州から来たのだろうということになるのだが、結論から先に書いてしまえば、この神功伝説の史実性は疑わしいと見るのが通説である。実際の応神朝に北九州の要素がまるで稀薄だということと符合しているようである。

 例えば、後の世に来目皇子も斉明天皇も半島に出兵する為にこの北九州にやって来た。半島進攻の先駆者神功ゆかりの香椎宮や半島進攻の守り神である住吉神社のすぐ近くを通っている。何はともあれ先ずはここにお参りして良さそうなものである。しかし、何故か香椎宮にも住吉神社にも参拝した形跡が無い。彼等はこの有名な神託の伝説を全く知らなかったらしい。
 彼等が不勉強だったのだろうか? そうではなく、要は、彼等の時代には神託伝説はまだ成立していなかったということなのであろう。

 神功の実在性やその伝説の史実性については多くの方が論じておられるが、一例として津田左右吉氏の見解を引けば次のようである。
 「全体の調子が説話的であること、進軍路の記載が極めて空漠であること、新羅問題の根源ともいうべき加羅(任那)のことが全く物語に見えていないこと、事実としては最初の戦役の後、絶えず交戦があったらしいのに、それが応神朝以降の物語に少しも現れていないことなどを考えると、これは事実の記録または伝説口碑から出たものではなく、よほど後になって、おそらくは新羅征討の真の事情が忘れられたころに、物語として構想せられたものらしい。」(注1)

 神功伝説の史実性を信用しない学者が多いのは、そもそも彼女の実在性それ自体が怪しいからであるが、神功その人はこの小論の主題ではないのでこの程度にしたい。ここでの主題との関連で付言しておきたいことは、応神朝に色濃い日向の影、それが一見北九州的に見える神功伝説の中にさえ有ることである。

 ここで登場した住吉神、北九州の香椎宮で神功に神託を下したとされる神であるが、何故か北九州の神ではなくて日向の神とされている。<神功摂政前紀>には次のように有る。
 「日向国の橘小門の水底にあって、水葉も稚やかに出でいる神、名は表筒男、中筒男、底筒男の神がおる。」
 住吉大社の『住吉神代記』もこれを踏襲して同じく日向国の神としており、宮崎の住吉神社は全国の住吉神社の元宮を称している。

 北九州を舞台にした神託伝説の主人公が実は南九州の日向の神だというのも妙な話ではあるのだが、神話を離れても、実際にも、この住吉大社には日向の影を感じさせる部分が有る。例えば住吉大社で住吉神を祭っている津守氏のことである。

 (図2-2)は津守氏の系図である。(注2)
 津守氏はその祖をホアカリとしている。ホアカリの位置づけは伝承によって様々であり、『先代旧事本紀』のようにニギハヤヒと同一視するもの、『古事記』のようにニニギの兄とするものも有るが、津守氏自身の氏族伝承ではホアカリをニニギと木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)の子としている。これは『日本書紀』本文や『新撰姓氏録』と同じ伝承である。
 『古事記』や『先代旧事本紀』の伝えるホアカリ像には南九州の要素は特には無いが、『日本書紀』本文や津守氏の氏族伝承の中のホアカリは南九州や隼人と密接に結びついている。木花開耶姫は別名を神吾田津姫といい、吾田の隼人の姫である。津守氏はその木花開耶姫につながる氏族伝承を伝えていたらしい。

 その津守氏の先祖の名前を見ると、『書紀』にも登場する田裳見宿禰の次の一七代(応神の時代)からハッキリ津守を名乗るようになったようで、この辺りで氏族としてのアイデンティティが確立したのかと見られるが、その応神の時代が一七代津守豊吾田、仁徳の時代が一八代津守連的豊吾田男となっている。
 『日本書紀』<第六の一書>は木花開耶姫の別名として豊吾田津姫という名を伝えており、この豊吾田は吾田の美称と見て良さそうである。氏族としてのアイデンティティーが確立した時代の津守氏の先祖の名に忽然と「吾田」の字が現れる。

 色々有るホアカリ伝説の中で津守氏が木花開耶姫につながる氏族伝承を伝えていたことを考えると、この「津守氏の吾田」はやはり南九州の地名としての吾田であろう。ここは、神話の中では降臨したニニギが最終的に行き着いた地であり、木花開耶姫と出会った場所である。神武の妃に「吾田の吾平津媛」の名も有り、日向神話には多く登場する地名である。
 木花開耶姫に加えてこの「津守氏の吾田」、住吉神を祭っている津守氏はこの吾田の地とつながっている可能性が有るのかもしれない。『日本書紀』も『住吉神代記』もこの神を日向の神と伝えていた。

 周知の通り住吉神の出自については色々な見方が有る。元々が難波の住吉の神だと見る人も有るし、本来は北九州の神だとする見方も根強い。しかし、住吉神について一番良く知っているはずの住吉大社がこれを日向の神としていたし、津守氏の氏族伝承もそれを示唆している。木花開耶姫の名が系図に有るというだけなら良く有る話であって特に注目するほどのことでもないが、津守氏の先祖の名に実際に「吾田」の名が出てくるのは無視出来ない。
 住吉神が難波の土着の神だったにしてはそれを祭っているのが吾田の人だというのが妙なものであるし、一方、北九州の神とする見方は神功伝説に引きずられすぎているということであろう。来目皇子も斉明天皇も神託伝説を知らなかった。後世的な要素を外してみれば、住吉神には実は南九州や隼人の影が有る。そして、そうであれば神功の伝説も違って見えてくる。

 北九州を舞台にした華やかな神功伝説、そこで神功を教え導いたとされる住吉神には実は日向の影が有る。一見北九州的に見える神功の背後にすら日向の影がチラチラしている。しかも、津守氏の先祖の名に忽然と吾田の字が現れるのが応神や仁徳の時代。応神朝と日向の強い縁がここにも顔を出しているということである。

 (注1)井上光貞「日本国家の起源」岩波新書 から孫引き
 (注2)佐伯有清「新撰姓氏録の研究」吉川弘文館 より引用
 
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<休憩室>
神功皇后
























(図2-2)
津守氏系図






<休憩室>
コノハナサクヤヒメ像
       南さつま市

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