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 第二章 応神東征

 応神は何処から来たのか?
 伝説では北九州からやって来て大和を制圧したとされるのだが、どうにもシックリこない部分が有る。実際の応神朝に濃厚なのは北九州ではなくて日向の要素で、応神朝期の五世紀に栄えたのも日向であって北九州ではない。
 応神が本当に北九州から来たのか、素朴な疑問も有るということである。

 応神朝と日向


 五世紀の日向の繁栄を象徴するものが男狭穂塚と女狭穂塚である。男狭穂塚が全長219メートル、女狭穂塚が174メートル。男狭穂塚は形が少し崩れているのでその全長に関して違う見方も有るが、いずれにしろ大変に大きな前方後円墳である。畿内や吉備を除いて、こんな巨大古墳は他の地には無い。
 ここが古くから栄えた地であるのなら特に注目すべきことでもないが、四世紀までの日向は都を遠く離れた貧しい辺境で、考古学的には見るべきものは何も無い。その貧しい日向が五世紀に入ると突然に大変な繁栄を見せる。しかも、その繁栄ぶりが九州の中でも突出している。当時の北九州に日向に匹敵する古墳群は無い。五世紀の日向の古墳は、その数でも巨大さでも北九州を圧倒している。

 更に、単に考古学的に繁栄が確認されるというだけでなく、この日向の豪族の諸県君は応神朝の有力な外戚である。諸県君牛諸井、彼の娘は仁徳天皇の妃になり、孫娘は雄略天皇の皇后になった。大変なものである。それだけでなく、<允恭紀>によれば、反正天皇が没した時人々は大草香皇子を次の天皇の有力候補の一人と見た。この大草香皇子も諸県君牛の孫である。単に古墳のことだけではない。当時の北九州にこの諸県君牛と比べられる人はいない。ここでも、九州の中での日向の突出ぶりは際立っている。
 この日向の地が古くからこうした有力者を出してきた土地だったのであればこれも驚くほどのことでもないが、神話時代のことを別にするなら、崇神天皇や垂仁天皇の時代の伝承に日向は全く登場しないし、景行天皇から仲哀天皇、神功皇后までの時代の日向は征伐されるべき蛮族のクマソの地として描かれており、有力な外戚を出すような土地だったとはとても思えない。そうした土地に、次の応神朝期に諸県君牛が突然に登場するというのがひどく特異である。

 応神の出身地と方向違いの日向の繁栄も特異に映るが、逆から言うなら、応神朝期に応神の出身地の北九州が特に何の繁栄も見せていないというのがもっと奇異である。記紀は応神が北九州から来たと伝えている。この伝承を信じる限りでは、応神を支えていた勢力の中心は北九州勢だったろうと考えるのが普通である。応神朝期に栄えるべきは日向よりも先ず北九州のはずである。しかし、不思議なことに、この時期の北九州に日向を凌ぐ古墳群は無く、日向の諸県君牛に比べられる人もいない。
 というより、これは諸県君牛との比較以前の問題である。(表2-1)に有るように、初期大和朝廷の天皇の后妃で九州系の人は、その全てが日向(或いは襲)の姫君である。北九州出身の妃の名は無い。どうしたことか、ただの一人もいないのである。

 神武や景行は伝説の上でも日向と縁の深い天皇であるから、この二人の妃に日向の姫の名が有るのは分かるが、応神や仁徳は日向に行ったことが有るとは伝わっていない。彼等の妃にたまたま日向の姫がいても別に構わないけれども、それ以前に北九州の姫の名が有って良さそうなものである。応神の支持勢力の中心が本当に北九州勢だったのであれば、彼等も自分たちの娘を朝廷に入れようとしたろう。それがごく普通の想像である。しかし、実際にはそうした姫の名は無い。
  何故こんなことになっているのだろうか? 当時の日向には美人が多かったのだろうと言う人も有るのだが、まさかこれがそうした類の理由だけによるものとも思えない。それだけでは政治力学として納得しづらいということも有るが、それ以前に、日向にしか美人がいなかったとするのでは北九州の人に失礼である。ここにはもっと違った背景が有ったのであろう。男狭穂塚と女狭穂塚、日向を象徴するこの二つの前方後円墳に関して森浩一氏が次の点を指摘されている。

 宮川徙氏の研究によれば、堺市の百舌鳥古墳群で二番目の巨大前方後円墳である百舌鳥陵山古墳(伝履中陵)を前方部も後円部も、その形を正確に二分の一にしたものが女狭穂塚である。(図2-1)ところが、この百舌鳥陵山古墳は、本当は仁徳陵である可能性が有るのだという。森氏は次のように述べておられる。
 「百舌鳥陵山古墳は、オホサザキ(仁徳天皇)の子のイザホ別(履中天皇)の墓に宮内庁は指定しているが、いわゆる百舌鳥三陵のうちでは、現仁徳陵(考古学的には大山古墳)より古く、もし記紀での伝承どおりに百舌鳥野に三陵があるのであれば、百舌鳥陵山古墳が仁徳陵ということも考えねばならない。だから、百舌鳥陵山古墳とメサホ塚を、同じ設計図で造営したことの背景には、それぞれの被葬者が、生前何らかの深い関係にあったことを示唆している。」

 女狭穂塚には仁徳の影が有る。そうであれば、気になってくるのが男狭穂塚である。
 その男狭穂塚は、前方部の形状については色々議論が有り確定していないが、後円部については、網干善教氏がこれは誉田山古墳(伝応神陵)の後円部の二分の一になっていると指摘されているという。案の定と言うべきか、こちらは応神。男狭穂塚もまた河内の天皇陵と直結しているということらしい。
 「宮川、網干両氏の研究をふまえると、応神陵の可能性の高い誉田山古墳、応神の次にくる仁徳陵の可能性のある百舌鳥陵山古墳のそれぞれ二分の一で造営されたのが、西都原古墳群で接近して構築されているヲサホ塚とメサホ塚であることは、見逃せない事実である。」と森氏は述べておられる。

 応神朝には日向の色が濃いが、一方、日向の側にもはっきり応神朝の影が有る。日向を象徴する二つの巨大古墳には応神や仁徳のイメージがそのまま投影されている。これはやはり大変なことである。
 この時期の北九州に諸県君牛に比べられる人はいなかったが、前に見たようにそれは諸県君牛との比較以前の問題だった。そもそも天皇の后妃に北九州の姫がいなかった。
 同じように、この時期の北九州に日向に匹敵する古墳群は無いが、これもまたそうした比較以前の問題のようである。男狭穂塚や女狭穂塚は単に抜きんでて巨大な古墳だというだけでなく、それは河内の天皇陵と直結している。

 更に付け加えるなら、隼人のことが有る。
 南九州の蛮族の隼人、どうにも奇異に映るのがその隼人の記紀神話の中での扱いである。日本神話に於いて天皇家と隼人は親戚である。それも、天皇家の先祖が弟で、隼人の先祖が兄だという。これは信じ難いような伝承である。
 天皇家は天神の子孫の天孫族であり、普通の人とは違う。天皇家のこの高貴な出自こそが大和朝廷の統治の正統性の重要な根拠の一つである。こうした流れからすれば、天皇家が蛮族の隼人なんかと親戚であるはずがない。それがノーマルな感覚のはずである。
 ところが、隼人もまた天孫ニニギの子孫、つまり天孫族である。『新撰姓氏録』も隼人を天孫の項に収録している。しかし、蛮族が天孫の列に加わっているのでは、これでは天孫族の神聖性も有難みも全てブチ壊しである。統治の正統性もヘチマも無い。考えてみると、これはまるで滅茶苦茶な伝承である。
 記紀神話は大和朝廷が自身の統治の正統性を主張するために本来の伝承に相当な作為を加えた官製神話だと見る人が多い。それはそうしたものだろうと私も思うのだが、そうであれば尚のこと、天皇家と蛮族の隼人が親戚だというストーリーは奇異である。

 南九州の蛮族は以前は熊襲と呼ばれていた。それが隼人と呼称が変わるのが応神朝からである。また、仲哀の時代までの熊襲は征伐されるべき辺境の蛮族として描かれているが、応神朝以降の隼人は大和朝廷の体制の中に組み込まれている。
 例えば、記紀によれば住吉仲皇子の下に隼人が近従として仕えている。これが歴史時代に入ってからの隼人の初出であるが、この住吉仲皇子は仁徳の皇子である。
 或いは、雄略の死にあたって蝦夷は良いチャンスだと反乱を起こす。一方、その時隼人は陵の所で大声で哀しみ叫び、食事もとらずに死んだという。大和朝廷に制圧され服属を強いられた蛮族の行動としてはかなり奇異に映るエピソードである。
 仲哀の時代までの熊襲と応神以降の隼人は呼称が変わっただけとは思えない違いが有る。これも応神と日向の繋がりを感じさせる事実である。

 応神は北九州から来たという伝承にはどうにもシックリこない部分が有る。この時期の北九州には応神ほどの大王を出した土地という存在感がまるで無い。古墳にしても諸県君牛にしても或いは隼人のことにしても、実際の応神朝には北九州より日向の要素の方が段違いに濃厚である。応神は本当に北九州から来たのか、素朴な疑問も有るということである。

(注1)森浩一 前掲書より引用
 
  ー 目 次 ー  
 
 














(表2-1)
初期大和朝廷の
     九州系の后妃















(図2-1)
百舌鳥陵山古墳と
     女狭穂塚古墳         (注1)

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