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 物部系の崇神


 神話時代に続く欠史八代の長い空白の時代の後に、実在感の有る最初の天皇として記紀に登場してくるのが崇神であるが、この崇神に関していくつか気になることが有る。一つは、歴代の天皇をお祀りしている神社のことである。

 歴代の天皇・皇后で漢風諡号に神の字を持っている人が四人いる。神武・崇神・応神・神功である。この四人は他の天皇とは別格の神に近い存在と見られていたのであろう。
 その神武をお祀りしている神社は、宮崎神宮、霧島神宮、橿原神宮等色々有る。応神についても、宇佐八幡宮、筥崎宮、気比神宮等の名が直ぐに頭に浮かぶ。神功は応神と一緒に祀られているケースが多いが、それ以外にも香椎宮や住吉大社等でもお祀りされている。
 それでは残るもう一人の神天皇・崇神がどこでお祀りされているのかというと、これがサッパリ思い浮かばない。自分が無学なだけだろうと資料を当ってみたのだが、例えば『皇室の百科事典』(新人物往来社)で「皇室ゆかりの社寺一覧」を見ると、神武・応神・神功については前出の神社の他にも多くの神社の名が載っているのに、ここに崇神や垂仁をお祀りしているという神社の名が無い。驚いたことに、たったの一つも無いのである!(表1-2)
 崇神ほどの大王にして何故?! 全く意外である。

 神話の神武とは実は崇神だと見る人も結構多いのだが、恐らくそれは有り得ないと思う。崇神が大和朝廷の真の始祖であるなら、その崇神をお祀りしている神社が一つも無いということは考えられない。
 それでは崇神とは何者なのか? 崇神に関して気になることの二点目が物部氏や穂積氏のことである。

  (図1-1)は崇神の系譜である。崇神は穂積系の開化と物部氏の女性の間に生まれ、穂積系皇子の大彦の娘を娶って垂仁を生んだ。なんとも徹底した物部・穂積系の天皇である。(注1)
 この系譜から想像するに、崇神や垂仁の時代、物部氏や穂積氏の力は大変なものである。崇神は並みの大王ではない。ハツクニシラススメラミコトと呼ばれた「大王の中の大王」であるが、物部氏祖の伊香色雄はその崇神の伯父、穂積氏遠祖の大水口宿祢は崇神のイトコに当る。
 ニギハヤヒの系統は遠い昔の神武の時代に没落したのだろうとばかり思っていたのだが、まるで違う。この崇神の時代は再び物部・穂積氏の絶頂期である。神話時代を別にすれば彼等の力が最も強かった時代である。神話のニギハヤヒの時代もかくやと思わせる程である。なにしろ、崇神自身、その身体に流れている血の実に四分の三が物部・穂積氏の血である。
 この時代の大和はまさにニギハヤヒ系氏族の天下。物部氏も穂積氏も大和の地に大きな所領を持っていたろう。崇神の時代とはそういう時代である。

 一度は没落したはずの彼等がいつどのようにして勢力を盛り返したのか、知りたいのはそのことであるが、それは全く分からない。神武から崇神までの間は欠史の時代で、記紀はそれについて何も記していない。手掛かりが有るとすれば、むしろこの後の展開である。
 というのも、この物部氏や穂積氏が後の時代には何故かこうした外戚としての地位を失っている。開化・崇神・垂仁という三代の天皇を出したこの氏族が、後には、天皇はおろか天皇の妃すら全く出さなくなる。有力な外戚から全くの家臣に、まるで様変わりである。何が有ったのか? 崇神ほどの大王を出した氏族にしては、これは或る意味で没落と呼んでも良いような変化である。
 それが、前に見た崇神をお祀りしている神社がサッパリ見当たらないという事実と符合しているようにも見える。崇神の大和は後世に大きく塗り変えられてしまったようである。

 <崇神紀>に登場する長尾市の伝承が符に落ちないと書いたのは、こうしたこととの関連である。
 この大倭国造家、大和郷を本拠地とした氏族として知られるが、そもそもそんな小さなエリアだけを支配していた勢力ではなかったらしい。栗田寛氏は、「大和国造は大和の半国許りを所割しものにて、大和一郷に限れるにはあるへからす。」と言っている。飯田武郷氏の『日本書紀通釈』では、この一族は、宇陀郡、十市郡、城上郡、城下郡、山辺郡、更には添上下郡あたりも領していたのではないかとしている。大変なものである。

 大倭国造家がこうした勢力になったのはいつのことか? ポイントはそこである。

 記紀の言う通りなら珍彦が大倭国造になったのは神武の時代であるから、崇神の時代には国造家は既にこれだけの土地を所領していたはずである。しかし、
 ●崇神の時代は実はニギハヤヒ系氏族の絶頂期であるが、遠い昔の神武の時代に一度は没落したはずの物部氏や穂積氏がどのようにして復活したのか、その復活のドラマが検証出来なかった。
 ●冷静に考えて、伊香色雄や大水口宿祢が権勢を誇っていた崇神の時代に、大倭国造家が大和の「半国許り」を所領していた気配は無い。
 ●そもそも崇神の時代、大和郷は未だ穂積氏の所領で、国造家の本拠地になっていない。

 崇神の時代の大和には神武の大和平定の痕跡が全く何も残っていない。
 神武の伝説をそのまま実際の歴史と見るのは無理が有りそうであるが、しかし、神武伝説が全く根も葉も無い話かというと、そうでもなさそうである。前に「神話の因縁話に第二幕が有ったのは事実」と書いたのがそれである。
 崇神より後の時代には物部氏や穂積氏が外戚としての地位を力を失っており、一方、いつの間にか大倭国造家が大和の「半国許り」を所領している。これはもう大和郷一郷の乗っ取りといった小さな話ではない。「国盗り」と呼ぶのがふさわしいスケールの話である。
 それに加えて、ハツクニシラス大王と呼ばれるほどの大王でありながら、その崇神をお祀りしている神社がサッパリ見当たらなかった。

 神話時代と歴史時代と、ニギハヤヒ系氏族は二度没落している。
 崇神の時代の大和には神武の大和平定の痕跡が全く何も残っていないことを考えると、歴史時代の二幕目の方が実体で、一幕目(神武伝説)はその神話化と見るのが妥当であろう。大倭国造家の先祖(珍彦)が登場した時代とは、裏を返せば物部氏や穂積氏が力を失った時代。そうであれば、実際の歴史ではそれは崇神より後の時代のことである。

 こうしたことを書いてきたのは、「大和郷の名をつけたのは大水口宿祢」という吉田東吾説に疑問が有ったからである。穂積氏とヤマトの名はミスマッチの感が強かったが、一方、後に大和郷の主になった大倭国造家、考えてみればこの氏族、まさにヤマト一色という氏族である、
 即ち、カムヤマトと号した神武の伝説の中に始祖伝説を持ち、自身の氏族名の頭にもヤマトを冠し、ヤマト郷を本拠地とし、ヤマトの神を祀っていた。まるでヤマトづくしのフルコース。まさにヤマトの名の申し子のような氏族である。

 旧名穂積の地はいつの間にかこの氏族のものになり、地名も大和郷に変わっている。誰が大和郷の名を付けたのか、答は自明のようなことである。
 郷名がヤマトに変わった後も穂積氏は穂積氏のままでヤマト氏になっていないし、ヤマトの神の祭祀もしていない。常識的にも、本拠地の地名をヤマトと変えたのであればそれはやはりヤマト氏であろう。しかもそれがヤマトの名の申し子のような氏族。この氏族がこの地の主になり、そこでヤマトの神を祭り始めた時、その時この地の地名がヤマトに変わった。大和郷の名のキーマンは大倭国造家、それが素直な推論である。

 大和郷の名が登場した時期、即ち神話が珍彦と呼んでいる大倭国造家の先祖が大和の地に現れた時期、それは恐らく崇神や垂仁よりは後の時代のことである。
 実際、伊香色雄や大水口宿祢が権勢を誇っていた崇神の時代に、大倭国造家が大和の「半国許り」を所領していた気配は無い。実際の歴史では、この時代の大和はニギハヤヒ系氏族の天下。そもそも大和郷も未だ穂積氏の所領で、国造家の本拠地になっていない。冷静に考えてみれば崇神の時代の大和には国造家の居る場所が無い。
 崇神の時代のこととして伝わっている長尾市の伝承の史実性は疑わしいということである。

 「珍彦の時代」、どうやら或る程度まとが絞れたようである。

(注1)物部・穂積氏の系譜は、ここでは太田亮『新編姓氏家系辞書』に従った。『日本書紀』の伝える系譜とほぼ同じだが、『書紀』には大矢口の名は無い。
 尚、鬱色許男も大水口宿祢も穂積氏遠祖とされるが、この系譜では直系ではない。『古事記』では伊香色雄を鬱色許男の子とする。
 伝承により系譜に小異が有るが、この時代は物部氏と穂積氏を峻別する必要も無い時期であり、ここでの議論との関連ではどの伝承に従っても特に違いは無い。

 
  ー 目 次 ー  
 
 
(表1-2)
歴代天皇を祀る神社

(図1-1)
崇神の系譜

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